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私の第三十四夜をつづります。

『桜姫東文章』を観終わって。

 

21日の午後。
待ちに待った『桜姫東文章』(下の巻)の舞台を観た。

 

梅雨晴れの歌舞伎座前…すでに、小さな日陰のなかで開場を待つ人々がいた。
私は、『これが新しい歌舞伎座なのか…』と、思わず見上げてしまった。雲を突く大男のようなビルになっていたのだ(歌舞伎座に来たのは、たぶん30年前の十二月大歌舞伎が最後だった。何もかもが新鮮に映った)。

ほぼ一番乗りで観客席へ。
2階奥の東側の席に腰をおろす。花道がかろうじて見えて安心する。
そして、歌舞伎座のコロナ感染対策には、念には念を入れて…の意地を感じた(四月の”上の巻”のチケットが払い戻しになったのはつくづく残念だった)。

 

やがて幕が引かれて、『桜姫東文章』の舞台が始まった。
(鮮やかに”振り落とされる幕”は、胸躍る独特の演出だと思う。今回、幕が切って落とされたのは、二幕目の「山の宿町 権助住居の場」だったので、期待したような息をのむ美しい場面は現れなかった。)

 

舞台の玉三郎は、記憶と変わりなく美しかったし、仁左衛門は、記憶よりさらに”色男”になっていた。凄いと思った。過ぎ去った長い時間はどこに行ったのか?と思った。

また、不思議なことに、若い頃は不自然に感じたこともあった女形なるものを、今回は全く意識することが無かった。
桜姫はもちろんのこと、長浦も葛飾のお十も、その演じるままの存在だった(これは、私が老齢となり、性差より別のものに意識が向くようになったからなのか?)。 

もう一つ不思議だったのは、二幕目の終わり近く、残月らによってむごたらしく殺された清玄が落雷で蘇生し、逃げる桜姫との立ち廻りを見せる、という陰惨な場面での観客の反応だった。
そこでは、かつて稚児白菊との心中で死に後れた清玄が、白菊の生まれ変わりの桜姫に執心し、蘇生した異様な姿で、「病みほうけたるこの清玄、所詮命は風前の灯火。破戒の上はなに厭わん。つれなき其方を刺し殺し、我もその儘自害なし、未来は一つの蓮の楽しみ。」と、桜姫に出刃を向ける。
そして長々しい立ち廻りの果てに、清玄は自分の墓穴に落ちて出刃を喉元に突き刺し、今度こそ息絶える…その陰陰滅滅とした場面で、私の前の席から小さな笑い声が何度も聴こえてきたのだ。
果たして、作者の南北は、この場面での観客の笑いを予想していただろうか?と、気になった(当時の観客は、ここでどのように反応したのだろう?)。

また、事前に読んでいた『名作歌舞伎全集 第九巻』(1969年 東京創元社)のセリフが、今も、ほとんどそのまま再現されていることを面白く感じた。
その一方で、運命が大きく変転してゆく桜姫の刹那主義的な振る舞い、その彼女を巡る人々の欲望のうごめきが、現代にも通じる形で丁寧に描かれながら、大詰の「三社祭礼の場」では、唐突に、お家再興という大雑把な大団円へと収束してしまうことに違和感を持った(唐突感を少しでも薄めようとしたものなのか、全集とは異なる多少の改変がなされてはいたけれど…)。

それは、「きれいは汚い 汚いはきれい」というような相対的な価値観 を描きながら、突如として、善悪の価値観を捨て去るごとくに、体制のど真ん中へと明るく(?)帰依してしまう結末に対する違和感だったと思う。

私が今生きる社会も、そうした”帰依する人々”に支えられているのではないか?

こうして私は、『桜姫東文章』を観終わった。
(どうも、今回の観劇からは、オペラから得る体感的快楽とは別物の刺激を受けたようだ。)

そして、あとになって、『やっぱり、”お家再興”の結末は無いよな…』と思ったのだ。それでも、南北は ”素敵に” 刺激的なのだったけれど。

 

歌舞伎座の前で

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客席に浮かぶ富士(緞帳の1枚目)

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東へ流れてゆくウロコ雲にまぎれる月(平塚駅前で):
月は、雲の流れの中を泳いでいるように見えた。

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