enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

「エゝ よしねぇな 化物話は よしてたも」

 

21日の『桜姫東文章』のなかで思い出される二つのセリフがある。
(昨今、”社会的・政治的な化物話”が多い。また、つい本音を吐いてしまう輩を茶化してみたくなることも多い。次のセリフは、そんな時に口をついて出てきそうだ。)

*桜姫
「エ よしねぇな 化物話は よしてたも」

権助
「違え(ちげえ)なし   /  \  違え(ちげえ)なしの木 さるすべり


権助のセリフには、小さい頃よく耳にしていた「恐れ入谷の鬼子母神」・「驚き、桃の木、山椒の木」といったダジャレより、一層可笑しい響きがあった。

桜姫東文章』では(下の巻を観ただけではあるけれど)、清玄と権助は実は兄弟…という前提で、その対照的な男性像が、セリフによっても描き分けられている。そして権助のセリフは、仁左衛門という役者が醸し出す色気によって、細部まで活性化・肉体化してゆく。
(破戒僧の清玄像…妄執の姿で惨めな最期を迎える男…には愚直で野暮なセリフが用意され、ヤクザな権助像…人殺しも意に介さず、また桜姫を”夜鷹(惣嫁)”にしてでも稼がせようとする男…は、魅力的なままに描かれる。)

それに対し、桜姫の一人の肉体から、”吉田家の姫”としての気取った言い回し、”風鈴お姫”としての野卑な言葉とが、ないまぜに発せられる。その発想には、作者の一つの女性観があらわれているように感じた。
(桜姫による対照的な言葉遣いは、どちらも社会的に獲得されたものであって、本質的には一人の女性像の中で統合され得るものだ。しかし、清玄像と権助像は、一人の男性像のなかで、桜姫のように矛盾なく成立させることはできない。作者はセリフを書く過程で、桜姫という女性像に”したたかな生命力”を見透かしていたのだろうな、と思う。)


「エゝ よしねぇな 化物話は よしてたも」
五輪開幕が確実なものとなりつつある現在、桜姫が口をきけるものなら、率直にこうした啖呵を切っただろうと想像している。