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私の第三十四夜をつづります。

相模国府域を通る古代の道

 

7月に入って、全くの自由時間というものを1週間ほど味わうことになった。日々の家事から解放された幸せな日々…11c代の相模国府についての雑多な妄想を、テーブル一面に広げて過ごした。

そのなかで、11世紀の歌人相模が走湯権現に参詣した1024年、彼女が平塚から海岸ルートへ向かった道について、7年ぶりに再考することになった。
_____________________________________ 走湯参詣ルート2 『相模集全釈』281・284の歌 - enonaiehon          

 
「284 御山なる 富草の花 つみにとて ゆるぎの袖を 振りいでてぞ来し」 
                   (『相模集全釈』1991年 風間書房
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この歌の「ゆるぎの袖」を「高麗山(大磯丘陵東端部)のふもと」と読み取った場合、歌人相模は、平塚 → 高麗山北麓 → 王福寺 → 大磯海岸という道筋(『延喜式』の古代東海道ルート)をたどったのではないか、と想像した。

そして、国府域から高麗山方面に向かうその道筋を、2万分の1の旧地形図(陸地測量部 明治15年測量、明治24年印刷・発行)上に求めてみた。明治期の道のなかに、古代まで遡るものがどれほどあるものなのかは分からない。それでも、下図(⇒【相模国府を通る古代の道】)に示した斜向路「八王子道」)が最も妥当なルートのように感じられた。そんな漠然とした思いつきのもとに、拙い地図作りが始まった

なお、この「八王子道」として示した斜向路については、大磯方面寄りの破線部分、及び坂戸B遺跡近くの厚木方面寄りの破線部分は、あくまでも想像で補完したラインだ。

もともとの旧地形図上では、坂戸B遺跡付近から厚木方面に向かうルートは、「フタツヤ」と呼ばれる地点で、南北道(現在も残る「粕屋道」)と合流し、100mほど東に折れたあと、再び厚木方面に向かう、という道筋をとっている(⇒【参考図:旧地形図(明治24年発行)の「八王子道」と「粕屋道」】)
つまり、下図では、厚木道方面に向かうルート(現・129号線)に滑らかにつながってゆく斜向路を想定し、その道筋で欠けている部分を破線で補完している。

また、下図では、現在も残る「粕屋道」や、『新編相模国風土記稿』でも言及されている「厚木 八王子 道」(現・八幡宮の地点から「フタツヤ」まで北上する道)をあえてトレースしなかった。それは、11c代の八幡宮の所在地というものが、私のなかで揺れ動いているからだった。

むしろ、11c代の八幡宮国府中枢域付近(下図中で「成事智院旧地か?」とした地点)にあったのではないか?という疑問(単純には、現・平塚八幡宮の周辺から11世紀代の遺物・遺構が検出されることで解消される疑問)を打ち消すことができないがために、現・八幡宮の地点から「フタツヤ」までの道筋や、「フタツヤ」から分岐する南北道の「粕屋道」について、ともに11c代にさかのぼらないものとして、恣意的に捨て去った。
結果的に現・八幡宮は、国府域から南に離れた地点に、孤立した形で示されることになった。

さらに、12c中葉の時点での「​相模国国府別宮」(『石清水八幡宮文書』)や、12c末の時点での「八幡宮(『吾妻鑑』)、15c末の時点での「八幡といへる里」(『廻国雑記』)所在地についても、同じような問題が生じる。
すなわち、「現・八幡宮はいつから現位置に存在するようになったのか?」という問題が、私の妄想の中で問われ続けているのだ。
そもそも、『延喜式』の古代東海道ルートや近世の東海道ルートが、11c代の平塚の地で、どのように機能していたのか・していなかったのか、また、『延喜式』の古代東海道ルートは、国府域内で検出された古代東海道とどのようにつながるのか・つながらないのか、といった問題も、自分のなかで定まっていない(下図に示した国府域内の「古代東海道」は11c初めまでは存続していたようだ)

かくして、「相模国府域を通る古代の道」では、恣意的な要素を恣意的に記載するだけで終わった。つまり、確かなことを明らかに示すことは何もできなかった。

ただ、これまでモヤモヤとしていた問題点を確認・整理する一つの機会にはなったと思う。1週間を使い果たして…ヤレヤレ…な結果ではあるけれど、今、小さな地図1枚が目の前に残ったので、覚書としておきたい。
(今後、新たな地図に、新たな事実を加える日が来ますように。)

 

【「相模国府域を通る古代の道」:主な記載事項について】

皇朝十二銭(8c後半~10c初頭)を出土した遺跡》
 六ノ域遺跡、諏訪前A遺跡、諏訪前B遺跡、四之宮下郷廃寺、神明久保遺跡、構之内遺跡、上宿遺跡

《多量の緑釉陶器を出土した遺跡》
 林B遺跡
《「国厨」を示す墨書土器を多数出土した遺跡》
 稲荷前A遺跡

国府域外で「八王子道」に近接する遺跡》
 坂戸B遺跡(10c代の掘立柱建物を検出)
 諏訪町A遺跡(10c代の掘立柱建物を検出)
 諏訪町C遺跡(10c後半から11c初頭の井戸を検出)

《建久3年(1192)源頼朝が神馬を奉納した社寺 》
 「四の宮」、「五大寺」、「平等寺」、「八幡宮」、「黒部宮」、「高麗寺」

国府域内を通る東西道》
 古代東海道:構之内遺跡の道路状遺構(うち後期道路-9c~11c初)
 谷川沿いの東西道(推定)

《その他》
 成事智院旧地(推定):慶長14年(1609)、八幡村から平塚新宿(現・八幡宮の所在地)の八幡別当・等学院に引き移されたとされる寺院。住持は法印実雄。
 相模国庁をの形に囲む旧河道南面のの形の崖線:国庁建物を区画する要素として示した。

 

相模国府を通る古代の道】

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明治15年測量の2万分の1の地形図「平塚驛」(明治24年 陸地測量部)をもとに縮小・改変してトレース〕

 

【参考図:旧地形図明治24年発行)の「八王子道」と「粕屋道」】

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【参考文献】
・「相模平野地域における縄文海進期以降の古地理の変遷」(森 慎一・野崎 篤 )
  〔『平塚市博物館研究報告 2016 自然と文化 №39』〕

・「相模国の郡家と国府をめぐる諸問題」(田尾誠敏)
  〔『考古論叢 神奈河 第25集』(2018年 神奈川県考古学会)〕
・「神奈川県平塚市構之内遺跡の道路状遺構」(上原正人)
  〔『古代交通研究 第11号』2001年 古代交通研究会〕
・「坪ノ内遺跡発掘調査概要」(1996年 林原利明 坪ノ内遺跡発掘調査団)
・『平塚市埋蔵文化財シリーズ46 坪ノ内遺跡第5地点』(2013年 平塚市教育委員会
・『湘南新道関連遺跡Ⅰ 大会原遺跡 六ノ域遺跡』(2007年 財団法人 かながわ考古学財団) 
・『神奈川の古代道』(1997年 藤沢市教育委員会博物館建設準備担当)
・『ガイドブック13 平塚・平野の地形』(1993年 平塚市博物館
・『平塚市史 11下 別編 考古(2)』(2003年 平塚市博物館市史編さん担当 平塚市
・『平塚市史 別編 考古 基礎資料集成2 平塚市内出土の緑釉陶器』
   (2001年 平塚市博物館市史編さん担当 平塚市博物館
・『平塚市史 別編 考古 基礎資料集成3 平塚市内出土の墨書・刻書土器』
   (2001年 平塚市博物館市史編さん担当 平塚市博物館
・『遺跡が語る地域の歴史』(2004年 平塚市博物館
・『検証 相模国府 -古代都市復元への挑戦-』(2010年 平塚市博物館
・『平塚市地名誌事典』(2000年 小川治良)
・『大野誌』(1958年 大野誌編集委員会編 平塚市教育委員会
・『四之宮』(2016年 四之宮郷土史同好会)
・『八幡の郷土史』(第1回 2012年・第2回 2013年 八幡地区自治会連合会 郷土史編纂委員会)