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私の第三十四夜をつづります。

10世紀前半の伊豆山の「菅野名明」

 

 

先日、熱海に出かけたあと、長い間読むことのなかった1枚の資料を見つけた。

タイトルは「称名寺聖教 三七五函一〇号 走湯権現當峯遍路本縁起集幷三嶋戸隠少在之」。
金沢文庫特別展「顕われた神々」の講演会(「伊豆・箱根・富士をめぐる”かたり”の世界」 西岡芳文 2018年12月23日)で配布されたもので、苦手な漢文体であったために、私にはご縁の無さそうな資料として眠ったままだった。

今回、以前に『走湯山縁起』をもとにまとめた次の表「10世紀代の走湯山における堂社・神仏の造立」と、この「称名寺聖教 三七五函一〇号 走湯権現當峯遍路本縁起集幷三嶋戸隠少在之」の後半部分とを照合して、改めて~10世紀の伊豆山の整備の流れ~(覚書)として要約してみた。

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10世紀代の走湯山における堂社・神仏の造立~ :造立 :修造・修復・改造

*表中の〔僧侶〕欄:「延▢」の▢は、「學」に「攴」の「斅」。

*表中の〔年代〕欄:「936」は「937」の誤り(「承平七年」=937年)。

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~10世紀の伊豆山の整備の流れ~(覚書)
【参考資料:「称名寺聖教 三七五函一〇号 走湯権現當峯遍路本縁起集幷三嶋戸隠少在之」

                   :「伊豆山縁起」】

◆金春 904年       
      〇講堂(3間4面 檜皮葺):十一面観音像(長八尺)【註1】     
      〇礼堂(5間   檜皮葺):執金剛神二躯(長八尺)      
      〇経蔵          :五千余巻聖教【註2】

◆延斅 937年     
      〇 ?【註3】(願主:菅野名明朝臣【註4】)                        
 延斅 941年     
      〇食堂(造立:当国太守 平立身【註5】・【註6】) 

 延斅 960年   
      〇鐘楼   

 延斅 964~965年(964年に杣山で材木を取り始め、965年に堂宇・像を造立)      
      〇講堂(5間4面 檜皮葺)
         :金色十一面観音像(長五尺)
         :正観音像    (長五尺)【註7】
         :権現      (御長六尺)          
      〇礼堂(7間 棟高四丈・東西長八丈五尺・南北広六丈)

 延斅 969年      
      〇常行堂(願主:当国太守 依智秦永時):金身仏菩薩七躯
      〇西廊【註8】
      〇僧坊(3間4面 檜皮葺)      
 延斅 971年
      〇 ?【註9】 修復:普賢文殊檀像(金泥)

 延斅 970~972年
      〇食堂(7間2面)

 延斅 973~974年 
      〇宝塔1基(願主:北条大夫平時直【註10】):金色五仏

 延斅 983年
      〇大門(3間 檜皮葺):金剛力士
      〇御祭所・礼殿改造
      〇中堂改造(3間4面 檜皮葺)
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【註1】『称名寺聖教』では「講堂(3間3面)」 
【註2】『称名寺聖教』では「千余巻諸経論」
【註3】『称名寺聖教』では「法華堂」
【註4】『称名寺聖教』では「故菅野名明朝臣為当府吏」    
*なお『扶桑集』の詩人の一人に「菅野名明」がいる。
〔出典:後藤昭雄「『扶桑集』の詩人(六」」『成城国文学』第38号 2022年3月〕
【註5】 前上総介(962年時点)
【註6】『称名寺聖教』では言及無し 
【註7】『称名寺聖教』では「長六尺」
【註8】『称名寺聖教』では「西軒廊」
【註9】『称名寺聖教』では「法華堂」
【註10】『称名寺聖教』では言及無し
*以上の【註】の『称名寺聖教』:『称名寺聖教』375函10号「走湯権現当峰遍路本縁起集幷三嶋戸隠少在之」(永観三〔984〕年11月11日に「都維那 長尋」が記したもの。なお、『走湯山縁起』の巻第五は、4年後の永延二〔988〕年3月に「沙門 延尋」が記したもの。)

 

この作業のなかで嬉しかったのは、【註3】・【註4】のように、願主「菅野名明」が伊豆国に「府吏」として着任し、937年、伊豆山に「法華堂」を造立後に帰洛したとの記述があったこと(あくまでも、「都維那(ついな)長尋」の記録がまったくの創作ではないとの前提のうえで)、さらに、最近の論文(後藤昭雄「『扶桑集』の詩人(六」」『成城国文学』第38号 2022年3月)から、彼が『扶桑集』の詩人の一人として名を残していることが分かったことだ(ただ、彼の詩そのものを知ることができないのは残念なことだが…)。

これまで、『走湯山縁起』のなかに記された「菅原氏胤」・「平立身」・「越智秦永時」といった伊豆国司名、また「北条大夫平時直」・「菅野名明」などについては、私にとって、まさしく名前のみの存在だった。

しかし、「菅野名明」という人物が実際に10世紀の京で『扶桑集』の詩人として活動していたのであれば、「菅野名明」なる人物が10世紀の伊豆山で法華堂を造立したという記録も、かなり現実性を帯びたものとなってくる。

一方で、肝心の「伊豆山男神立像」について、いまだ、鷲塚泰光氏の「10世紀末~11世紀初頭」説と山口隆介氏の「965年説」との間で揺れ動いているし、『相模集』の「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」で歌人相模への返歌を詠んだ存在も、杳としてつかめないままだ。

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑩‐まとめにならないまとめ(2) - enonaiehon (hatenadiary.jp)

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それでも、こうして、さまざまな機会を得て、新たに知ることも増えてゆく。だからこそ、妄想はやめられない。次は何が分かるだろう? どのようにささやかなことでも知りたい…こうして妄想は続く。