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私の第三十四夜をつづります。

メモ:緑釉秋草文陶硯(梶谷原A遺跡)と「国厨」墨書土器(東中原G遺跡)

 

 

図書館や博物館に通う気力や物事を記憶する力が衰え、”相模国府の考古学”についてのアンテナが錆びれる一方となっている。
郷土の考古学情報は、自ら不断に探し求めなければならないのだと反省する。

今回も、近年の調査報告などから得た情報(特殊遺物など)をメモしておく。

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【メモ①】

参考文献:『神奈川県平塚市 梶谷原A遺跡第4地点』有明文化財研究所 2017年6月)

◆付編「梶谷原A遺跡第4地点出土の緑釉秋草文陶硯について」(山下守昭)から

「現存長43㎜、高さ24㎜」
「緑釉陶器の硯の右脚部」
「格調高い造形」
「右側面に秋草文が陰刻…猿投窯に見られるもの」
「9世紀後半に造られたもの」
「風字硯・猿面硯の類の脚部」
「木製漆塗り蒔絵仕上げの猿面硯類の脚が古代よりの硯の旧来の様式の内に存在することを実証した稀有な例であるとともに、当初からこの形状に造られた陶硯として平安時代の陶硯を考える上でも貴重な資料」

◆「まとめ 2.古墳時代~奈良・平安時代」から

「住居跡2軒、井戸跡1基、土坑1基」
「115号土坑は9世紀前半、16号井戸跡は9世紀後半、HT1・2号住居跡が11世紀初頭頃の所産」
「8世紀代の遺物が少ないことが特徴」
「施釉陶器の割合が多い」
「陰刻文を有する脚状の緑釉陶片、灰釉脚付盤や、輸入磁器の広東系白磁碗、青磁櫛描碗といった官衙的な遺物が出土」

【メモ②】
参考文献:『第9回 平塚市遺跡調査・研究発表会 誌上発表』平塚市教育委員会 2022年1月)

◆「東中原G遺跡第5地点」(高杉博章 株式会社アーク・フィールドワークシステム)から
「奈良・平安時代(8世紀~9世紀代)の遺構・遺物を主体」
「竪穴建物跡は14棟」
奈良時代(8世紀後葉)と推定される井戸跡(SE01)が見つかり…出土した遺物では、井戸に伴うものではありませんが、墨書土器が2点(「国厨」の甲斐型土師器坏・「厨」の須恵器坏)混じっていました。」
「竪穴建物跡は…SI10~14が8世紀前葉、SI02・04・09が8世紀中葉、SI03・05・07・08が8世紀後葉、SI01・06が9世紀後葉に営まれたものと推定」
「第1地点・第2地点と一連の国府に関する官人層の居住域と推定」

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【メモ①の追記:高林寺遺跡から出土したその他の主な硯】

◆下ノ郷廃寺(跡):

黒色土器の風字硯 2点(大:長さ6.7㎝、小:長さ3.3㎜)
平塚市博物館 (hirahaku.jp)「平塚の考古資料50選  43.役人・僧侶が使用した古代の硯(風字硯)」より )  
註:2点は畿内生産(9~10世紀)のもので、小さい硯は獣足付きとされる。
なお、”下ノ郷廃寺(跡)”については、第1地点(1961・1962年)、第2地点(1972~1973年)、第3地点(1983年)の調査が行われているが、上記の黒色土器風字硯2点は第1地点出土のものとされている

◆高林寺遺跡第5地区(”下ノ郷廃寺(跡)”の第3地点に相当する)
『四之宮高林寺Ⅲ』〔平塚遺跡会 1986年〕「高林寺遺跡第5地区の成果」〔小島弘義〕より)

須恵器の二面硯 1点(遺構外)
註:報告書では「両面硯」とあるが”裏表”ではないので「二面硯」としておく。
須恵器の風字硯 1点(P28)

◆高林寺遺跡第7地区
(『諏訪前B・高林寺』〔平塚市教育委員会 1988年〕より)
須恵器の二面風字硯 1点(区画溝SD05)
註:報告書では「風字硯は、両面硯で」とされているが「二面風字硯」としておく。
やや大型の二面風字硯 1点(P148)
註:報告書では「風字硯は、両面硯で」とされているが「二面風字硯」としておく。「底部に牡丹状の足が3点付く」、「体部から北武蔵窯の製品と考えられる」とされている。

 

なお、国府中枢域の「硯」の他の主な出土例として、次のようなものがある。
(2003年発行の『平塚市史』及び近年の報告書を参考にしたけれど、多くの見落としがあると思う。)
諏訪前A遺跡第4地点:尾張系円面硯 1点
諏訪前A遺跡第5地点:灰釉陶器転用硯(朱墨) 1点
註:『平塚市史』では、「体部を丁寧に打ち欠いた」とされている。
諏訪前A遺跡第6地点:大型円面硯片 1点(朱墨)
諏訪前A遺跡第2地点:円面硯片(脚部)1点
稲荷前A遺跡第6地点:須恵器風字硯片(前脚部か?)1点

 

【メモ②の追記】
相模国府域内で多数出土する「国厨」墨書土器について、甲斐型土師器坏に絞ってみた場合、今回の東中原G遺跡第5地点で4点目(訂正:正しくは5点目の出土となる稲荷前A遺跡第1・第2地点で2点、天神前遺跡第8地点で1点出土、東中原G遺跡第5地点で1点に、湘南新道関連遺跡群・坪ノ内遺跡7‐2地点の1点も加え、計5…と思う。

このように、相模国府中枢域の稲荷前A遺跡・天神前遺跡・湘南新道関連遺跡(坪ノ内遺跡)だけでなく、国府域外の西部に位置する東中原G遺跡で「国厨」・「厨」墨書土器が出土したことで、「国厨」という役所の在り方、その機能について改めて疑問をもった。

この東中原G遺跡第4地点で出土した「国厨」墨書土器は、「国厨」管轄の土器が国府域内の各拠点に移動する実態をあらわしているのだろうか。それとも、国府域内に「国厨」という施設や機能が複数存在すること、あるいは「国厨」という役所の機能が必要に応じて移遷することを示しているのだろうか? 

また、東中原G遺跡での「国厨」・「厨」墨書土器の出土や、梶谷原A遺跡での緑釉秋草文陶硯の出土は、国府域外の西方の花水川流域まで範囲を広げて、相模国府域の官衙の在り方を改めて整理し直す必要性を示しているのではないだろうか? 
ことに、「東中原E遺跡~東中原G遺跡~新町遺跡」、その西側に続く「中原D遺跡~山王脇遺跡~厚木道遺跡~上宿遺跡」などを、近年の新しい調査結果をふまえて、一体的(鳥瞰的)にとらえ直す視点が必要だと思う。
そして個人的には、専門家によるそうした見直しのなかで、東中原E遺跡で検出された”古代東海道国府中枢域から北西に続く延長ルート)や、東中原G遺跡・新町遺跡の大溝、厚木道遺跡の馬骨埋納土坑などの位置づけができるようになるかもしれない…そんな妄想を広げている。