enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

歌人相模と「石田(いした)」:長雨と夫の不在感

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軒の玉水かず知らぬまでつれづれなるに、「いみじきわざかな 石田(いした)のかたにもすべきわざのあるに」とおのが心々に、しづのをの言ふかひなき声にあつかふも耳とまりて

78 雨により 石田のわせも 刈りほさで くたしはてつる ころの袖かな

                    (『相模集全釈』1991年 風間書房  )
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いまだ『相模集』の「石田」の呪縛が解けずに、今もなお、あれこれと想い巡らしている。

「石田のわせ」については、2016年3月2日の enonaiehon( 「まきおきし 石田のわせの たねならば…」の歌 - enonaiehon (hatenadiary.jp)  )で、また「石田(いした)」の地については、2022年10月7日の enonaiehon ( 『相模集』の「石田」を探す - enonaiehon (hatenadiary.jp) )でモヤモヤした気持ちをそのままに書き記してみた。

それでも、まだ次のようなモヤモヤが残っているのだった。

①『相模集』78の歌の「長雨」の時期はいつか?
②その長雨の時期、歌人相模は大江公資とどのような関係性にあったのか?

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【①「長雨」の時期 (『相模集全釈』(1991年 風間書房)の論考から)

『相模集全釈』の解説で「贈答歌・独詠歌」に分類されている78の歌は、「宮仕えから、結婚、相模国府滞在頃まで 43-82」の時期に位置づけられている。
その時期は、巻末に付された年表で、具体的に次の年代が導き出されている。
*「1010年(推定年齢19歳)この頃 宮仕えか
*「1014年(推定年齢22歳)この頃 公資と結婚か
*「1021年(推定年齢30歳)相模国へ下向(秋)1025年(推定年齢34歳)相模国より上京(夏)

つまり、78の歌は ”1014年から1025年夏まで” の期間に属し、さらに時期をしぼれば(76の歌の【参考】の中で、「76-78は夫の夜離れの頃のものであろう」とされていることから)、おそらくは相模国下向(1021年秋)に近い時期(早稲を刈り入れる夏頃)に、大江公資の使用人たちが立ち働く歌人相模宅(母や従妹たちが暮らす邸内)で詠まれた、と推定されているように思う。

 

【②大江公資との関係性 (『相模集全釈』(1991年 風間書房)の論考から)

『相模集全釈』では78の歌の背景を次のように想定されている。

「夜離れの頃」(76の歌の【参考】より抜粋・引用)
「石田の荘園を公資の所領とするならば、そこでの収穫を気遣う、公資家の使用人達の内輪話が身近に聞こえるような立場にあって、公資との結婚生活も平穏であったはずのこの時期に、何故か相模は鬱々とした日々を送っていたことになる。」(78の歌の【参考】より抜粋・引用)
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以上の論考を踏まえ、かつ、2016年3月2日の enonaiehon( 「まきおきし 石田のわせの たねならば…」の歌 - enonaiehon (hatenadiary.jp) )を思い起こし、改めて想い巡らしたことをまとめておこうと思う。

 

まず前提として、『流本相模集』の構成・配列について、研究者による次のような見解が示されていることを押さえておきたい。

 

流本相模集は夙に武内はる恵氏が指摘しているとおり、歌の形式による構成と、時間的配列を融合させた、相模の人生記録であり、自伝的歌集である。
                    (『相模集全釈』(1991年 風間書房)の【解説】から)

そのうえで、78の歌を含む43~82の歌群が、さらにどのような方針で再構成・再配列されているのかを見極めるのはかなり難しいことのように想像される。そのため、研究者によって、78の歌が詠まれた時期や背景の捉え方が異なってくるようだ。

たとえば『相模』(武田早苗 笠間書院 2011年)においては、①の長雨の時期について、「農作物に大きな影響を与えたこの長雨は、『小右記』などの史料類から、長元元年(1028)の八、九月頃と推測される。」とされ、続いて②の大江公資との関係性についても、「これは、相模が夫公資と離縁に至ったと想定される時期と重なる。とすれば、実際の長雨のもと、鬱々としていた相模の苦悩が色濃く投影した一首と見てもよいであろう。」と解説されている。

一方、『相模集全釈』の巻末年表では、歌人相模と大江公資との離別時期を「万寿三年 1026年」と推定されていて、その推定年代については両論考の間に大きな差異はない。それに対し、78の歌の長雨の時期、歌の背景、歌人相模と大江公資の関係性については、かなりの差異が見られる。

つまり、『相模集全釈』では、歌人相模の部屋に夫・大江公資が通うなり住まうなりしている時期、長雨が降り続く日々のなかで、大江公資の使用人たちの会話を耳にした歌人相模は、刈り取られることもなく朽ち果ててゆく「石田のわせ」に我が身を投影し、満たされぬ想い(嘆きや不満、屈託)にひたっている…といった場面が想定されているように思える。
それに対して、『相模』では、歌人相模と大江公資が不仲になってゆく過程のなか、78の歌が詠まれた夏(1028年8~9月)を経て離縁に至った…と想定され、夫・大江公資との関係性はすでに回復不能の状況のなかで詠まれた歌として解説されているようだ(ただ、この想定では、大江公資の使用人たちが、なぜ大江公資の訪れも途絶えがちな歌人相模の邸内で立ち働いているのか、やや不自然さも感じられる)
また、この『相模』では、「相模の苦悩」の背景として、大江公資との不仲だけでなく、78の歌の詞書について、「雨で早稲を刈り取れないのを嘆き、農作物を心配する使用人たちの、現実的で、ある種健全な悩みを意識しながらも、長雨で恋しい想いがつのり涙で袖が朽ちたと、優雅ではあるが、自己中心的で、生産性のない恋の苦悩を自嘲的にとらえたもの」と解釈されている(この場合、歌人相模の「生産性のない恋」の対象として、著者は”藤原定頼”を想定されているのでは?と思われる)

素人の私には感覚的に語ることしかできないけれど、『相模』における捉え方と『相模集全釈』における捉え方を読み比べた時(さまざまな歌群が”どのような方針で再構成・再配列されているのかを見極めるのはかなり難しい”としても)、78の歌の時期については、『相模集全釈』の「公資との結婚生活も平穏であったはずのこの時期」と捉える視点のほうに、より説得力を感じている。
そして、歌人相模の歌とは、”情”と”プライド”、”未練”と”恨み”で揺れ動く心の空白を埋め合わせるものだったように想像する(彼女は常に身の不遇を嘆き苛立ち、その人生の不全感を、歌の形に結晶化させた。彼女にとって、現実の個人的な不全感は、歌によって昇華し普遍化してゆく作業のための糧でもあったと思う)

結局のところ、78の歌をどうとらえたらよいのか、モヤモヤした気持ちは今も残っている。
歌人相模のもとで立ち働いている人々が大江公資の使用人とすれば、夫を支える妻の一人としての自負が、78の歌の長い詞書になったのだろうか…と推測する。そして、78の歌は、”夜離れ”の兆しを見せる大江公資に対する”嫌味”・”当てつけ”としての、軽いジャブのようなものであったと思われるのだ。
しかしまた、人々が歌人相模の使用人であれば、大江公資の夫としての存在感は隠しようもなく希薄なものとなり、およそ10年後の結末(離縁)につながる歌として捉えることもできる…。)

なんとじれったいことよ…。
ここで思わず、私の脳味噌の中に住んでいるらしい歌人相模に向けて、次から次へと問いかけてしまう。
『…歌人相模さん、どうか教えてください! いったい「石田(いした)」とはどこでしょう?…「石田のわせ」とは何なのでしょう?…「石田のわせ」の歌はいつ頃詠まれたのですか?…聞きにくいことですけれど、大江公資さんを愛していましたか? というより、やはり愛していたのですよね?…それともずっと藤原定頼さんに恋していたかったのでしょうか?…あと、走湯権現さんからの返歌は誰が詠んだのでしょう?…私は能因さんではないかと妄想しているのですけれど…彼なら、歌の修行として百首の返歌を詠みこなす力量も時間もあったと思うのです…でも、まさか藤原定頼さんではないですよね?…彼とは、相模国から上京して久しぶりに手紙を送るような関係だったのですよね…それに、あのような形で歌のやり取りする相手というのは、貴方が対等に接することができる歌詠みのはず、と思うのです…第一、定頼さんが東国住まいの貴方に対し、百首も返歌を詠む誠意やエネルギーや時間があったなら、貴方の恋心に対して、もっと熱心に応えてほしかったですよね…いいのですよ、答えていただけるとは思っていないのです…とにかく、貴方と出会えたことに感謝しています…ありがとう、歌人相模さん…』

 

《追記》
なお、『相模』のなかで長雨の時期について、具体的に「長元元年(1028)の八、九月・・頃」と特定されている点に関連する情報として、最近読んだ『平安京の下級官人』(倉本一宏 講談社 2022年)のなかに、平安京の水害事例が挙げられていた。
なかでも、次のような大雨・洪水の例…1017年7月1日の事例なので、相模国下向(1021年秋)にも近い時期の長雨として該当するが、「石田のわせ」を刈り取る時期として、「七月一日(ユリウス暦七月二十六日)」が妥当なのかどうかは不明…があったので、参考として書き留めておきたい。

今回調べた限りでは、寛仁元年(一〇一七)七月一日ユリウス暦七月二十六日)から三日二夜、つづいた大雨による鴨川の洪水が、もっとも被害が大きかったであろう…東京極大路や富小路は巨海のようであり、京極あたりの宅は、皆、流損した…平安京の下級官人』から抜粋・引用)

また、『相模』で記されている「長元元年(1028)の八、九月頃」の長雨の事例についても、「長元元年(一〇二八)9月2日ユリウス暦九月二十二日)には大きな台風が直撃した。東の京外にあった法成寺のあたりでは塔が大きく傾き、西京(右京)では紙屋川の水が堀川に入って、多くの小宅が流損した…平安京の下級官人』から抜粋・引用)とあった。