enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

読了間近のメモ

 

『家父長制と資本制』後半の分析扁に入ると、ようやく見晴らしのよい尾根道に出たような気持ちになった。

それは一方で、1970年代前半に社会人となった私が、実に何も知らず何も考えていなかった、ただ盲目的に働くだけだったと、過去の自分をふり返ることでもあった。

また、『家父長制と資本制』前半の理論扁を経たからこそ、分析扁で次のような文章に出会った時、その言い回しはアッケラカンと響いてきたりした。
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「子どもは二人まで」の規範は、六〇年代にあっという間に定着する。日本の社会は、出生抑制を、どんな国家的な強制力にもよらず、たった一世代でなしとげた国である。しかもそれは、「経済的要因」による市場的な「レッセ・フェール」の間接統制のもとに、当事者たちの自由な選択の結果という見かけをとって実現した。
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         『家父長制と資本制』(上野千鶴子 岩波書店 1990年)の207頁から引用           

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女性は一〇〇%の家庭責任――家事・育児労働――を背負ったまま、就労する。女性の「二重役割」は、言いかえれば「二重負担 dual burden 」のことでもある。女性は賃労働者として資本制のもとで搾取され、同時に家事労働者として家父長制のもとで搾取されるはめになる。夫は家庭では妻の家事労働の上にあぐらをかき、職場では妻と同じような立場のパートの女子労働者を低賃金で使う上司となる。その上、そうやって妻が得てきた家計補助収入の成果を享受するのもまた、彼自身なのである。
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        『家父長制と資本制』(上野千鶴子 岩波書店 1990年)の218頁から引用

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一九八〇年代までに、ツーサイクル型・家計補助型・パートタイム型の就労形態――結婚までは働き、結婚もしくは出産を契機にいったん退職したあと、ポスト育児期に再び職場に復帰する――は、日本女性の多数派を占めるに至った。この変化は、高度成長期以後わずか二十年で起きたわけだから、時代の変化のスピードは思ったより早いと言わねばならない。(中略)かんたんに言ってしまえば、男がすべて生産者、女がすべて再生産者であるという「近代の要請」は終わりつつある。別な言い方をすれば、「近代型性別役割分担」のもとでは、男はだれでも生産者になれたし、女はだれでも再生産者になれた(またなるほかなかった)。そのかぎりで、「近代」は平等な時代、男を生産者として、女を再生産者として、それぞれ平等化する時代だった。その「近代型」の生産と再生産の編成が、再び揺れ動く時代に、私たちは直面している。
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        『家父長制と資本制』(上野千鶴子 岩波書店 1990年)の227頁から引用 

 

本を読みながら思う。
私はもはや生産者でも再生産者でもないのだと。
ひたすら消費するだけの存在として生き延びているのだと。
今日も買い物のために、散歩のために外に出てゆくのだと。
2020年代の社会の生きづらさを、日々肌身で知る人々が行き来する街角に出てゆくのだと。
いったい、社会の生きづらさとは減ったりしないものなのだと。

 

~春の海辺で~


港に帰る漁船

 

風と砂の営力

 

  防砂林に咲く椿