24日、再び図書館に出向き、『土屋郷土史』を借りてきた。
(先日は「土屋三郎宗遠公の木像」の写真頁をコピーしただけで帰ってきてしまった。)
家で改めて、「土屋三郎宗遠公の木像」の写真に関連する本文内容や、巻末の「おわりに」などの文章を読み直してみる。
その「おわりに」の文章には、執筆者の強い想いがまとめられていた。刊行から25年近くが過ぎてなお、そのプロテストに近い声が心に迫って響いてくる。
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「…私たちは、先祖から引き継いだこれらの遺産を「知らない」「分からない」でそのまま放置して無残な姿にしてしまうのではなく、有形無形の大切な遺産を次世代へ誤りなく引き継いでいく責任があると思います。
現に、寺分正蔵院所蔵の「土屋三郎宗遠公 木像」は、当時の研究者によってその姿が消されたままになったり、源水横穴古墳群が埋め立てられたり、貴重な遺跡・文化財等が調査・保護もされずに乱開発されたり、自然・生態系を乱す行為がされたりしています。…」
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(『土屋郷土史』(ささりんどうクラブ 1999年)から抜粋・引用)
こうした想いを銘記したうえで、自分なりの妄想の続きを書き留めておきたい。
≪妄想の続き≫
~『伊豆山神社の歴史と美術』(奈良国立博物館 2016年)をもとに~
「土屋三郎宗遠公の木像」の写真を目にして、まず確かめたのが『伊豆山神社の歴史と美術』の図録(特別陳列 銅造伊豆山権現修理記念 / 奈良国立博物館 2016年))だった。
この図録に載る、袈裟を懸けた「伊豆山権現立像」3軀(伊豆山神社)、同じく袈裟を懸けた「男神立像」(高来神社)1軀の写真と比較するためだった。
そして今日、再び図録を見直してみた。
まず、「土屋三郎宗遠公の木像」に類似する像の一つとして、熱海市・般若院の「伊豆山権現立像」(重要文化財)があることを知った。
(1)木像「伊豆山権現立像」(熱海市・般若院)
『伊豆山神社の歴史と美術』の図録(以下、”図録”とする)p.8には「かつて伊豆山には、鎌倉時代末の制作と推定される木像の伊豆山権現立像〔図6〕も伝わっていたが、神仏分離に際して別当坊だった般若院の移転にともない伊豆山を離れた」と紹介され、その〔図6〕として、カラー写真が掲載されている。
「土屋三郎宗遠公の木像」が懸ける袈裟には如来像の衲衣(のうえ)のように、襞が表現されているが、この般若院の木造「伊豆山権現立像」の袈裟にも、切れ味の良い襞がシンプルに表現されている。腰のある平たい一枚布の袈裟としてではなく、「土屋三郎宗遠公の木像」の袈裟のように、ドレープ表現をとっている点に特に興味をひかれた。
ただ、この般若院の「伊豆山権現立像」のはちきれんばかりに丸々としたシルエットや雛人形のような顔つきは、鎌倉時代の武将の肖像表現とは相容れないものだろうと感じた。
(なお、袈裟の掛け方がもっとも似ていると感じた伊豆山神社の「伊豆山権現立像」(銅造・像高93㎝・室町時代 1392年)の袈裟には、波のような襞は表現されていない。そのうえで、全体の印象としては、この伊豆山神社の銅造「伊豆山権現立像」が、もっとも「土屋三郎宗遠公の木像」に近いように思うのだ。)
次に、”図録”のコラム「銅造伊豆山権現立像の保存修理を踏まえた再評価」(山口隆介)のなかにも、袈裟を懸けた男神像の絵図の写真が掲載されていることに気がついた。
(2)「絹本著色諸神集会図」(米国・バーンシュタインコレクション)の男神像
コラムの最後には次のような記述があった。
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「…また、絹本著色諸神集会図」(米国・バーンシュタインコレクション)〔図5-1〕中の「走湯」と脇書される男神像〔図5-2〕は、左右逆で左手に数珠、右手に錫杖を執る。バーンシュタインコレクション本は、南北朝時代から室町時代(十四~十五世紀)に下るとみられる作品ながら、形制・服制ともに本像とほぼ一致するところから、もとはこれと同じだった可能性が高い。そして、この組み合わせからただちに連想されるのは、八幡神の姿であり、指貫の三巴紋が八幡神の神紋とされる点も見逃せない。『走湯山縁起』には八幡神と走湯権現が鎮護国家のために芳契を結んだとの興味深い一節がある。袈裟を懸け、数珠と錫杖を手にした伊豆山権現像の姿には、武家の守護神たる八幡神のイメージが重ね合わせられていると解したい。」
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(『伊豆山神社の歴史と美術』p.24から抜粋・引用)
この論考をもとに、「土屋三郎宗遠公の木像」を見直すならば、平塚市土屋の正蔵院に存在したとされるその木像に、はたして持物があったのか? あったとすればそれはどのようなものだったのか? が問われるように思う。
残された写真を見る限り、右手の指は軽く握られ、左手は衣の袖に隠れて見えない(袖の形は左右アンバランスに見え、左手は左袖から出ているのが自然であるのに、なぜか袖の中に隠れているようだ)。
しかも、握られた右手の傾きは、錫杖よりも数珠を握っていた可能性を感じさせる(右手が錫杖を握っていた場合、錫杖は斜めになってしまうように見える)。そして、隠れた左手は錫杖を握っている可能性はゼロに近いだろうと思う。
つまり、土屋宗遠が”源氏の守り神”として八幡神を信奉していたとしても、「土屋三郎宗遠公の木像」とされる像を八幡神と関連づける要素は現時点では見いだせない。
ただ、”図録”のなかで言及されているように、「袍の上に袈裟を懸ける独特の服制が共通する神奈川・高来神社男神立像との類似が認められる伊豆山神社権現像の像容もまた、鎌倉との密接な関わりにおいて成立したと考えられる。」(『伊豆山神社の歴史と美術』p.8)という視点は、「土屋三郎宗遠公の木像」を検証する際にも重要な視点になり得るはずだ。
個人的な妄想は、中世の伊豆山~大磯~平塚の土屋~鎌倉とつなっがたところで行きどまりになった。
将来、この写真の木像が、土屋の人々のもとに戻って来ることを心から願わずにいられない。そして、専門の研究者によって「土屋三郎宗遠公の木像」がきちんと評価され、しっかりと守られてゆく未来を信じたいと思う。