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私の第三十四夜をつづります。

久しぶりの発掘現場見学会:「及川伊勢宮遺跡」

 

18日朝、「及川伊勢宮遺跡」厚木市及川)の発掘現場に向かった。

10時開始の説明会に20分ほど遅れて着き、まず見学者数の多さに驚いた。すでに数百名の方々が受付を通り、説明の順番を待っていたのだった。

次に驚いたのは、目の前に現れた前方後円墳の”剥き出し”の全体像だった。
思えば、前方後円墳の発掘現場を最後に見たのは、2000年5月14日…すでに四半世紀ほど前の昔…の長柄・桜山古墳(第1・2号墳の範囲確認調査)だった。
その規模も立地も、今回の現場とは様相が大きく異なり、眼にした遺構も生々しい”剥き出し”の印象はなかった。

しかし、今眼の前にある遺構は、まさに解剖され晒されて横たわるかのような、そんな姿の現場だった。

配布資料の地図を見ると、古墳が載る段丘の下・西100mほど先には荻野川が南流している。しかし、古墳の主軸(NW68°)はむしろ、さらに1㎞ほど西の小鮎川の流れに沿って傾いているようにも思えた。
そして古墳からは、その小鮎川・荻野川の源となる東丹沢の山並みが見渡せるのだった。

出土遺物などを見学するうちに、午前中最後のグループの見学が始まった。
全長37mの1号墳前方後円墳、1辺約14mの2号墳(方墳)など、それらの周溝の幅・深さ、土層堆積のようすを間近に見ながら現場を一周する。
(遺構全体の土層はオレンジ色と黒色にはっきりと分かれていて、そのコントラストが強く印象に残った。)

古墳の築造時期は、2号墳が「古墳時代前期(~中期初頭)」とされていたが、1号墳と2号墳の時期差については、相互の位置関係や土層中の火山灰の有無の解釈など、まだ明確な見解は出ていないように聞き取れた。

帰宅後、昔の図録(『相武国の古墳』平塚市博物館 2001年)を取り出してみると、「及川伊勢宮遺跡」2号墳(「及川伊勢宮遺跡」の南東約400m)出土の完形「小型丸底壺」と似たもの(「坩(かん)」)が、「山ノ上2号墳」厚木市及川:方墳、周溝内法25×20m)から出土していた。
「山ノ上2号墳」の立地は、約400m上流の「及川伊勢宮遺跡」2号墳と同じように、荻野川との距離100mほどの段丘上に位置するが、年代は5世紀後半とされていた(今回の「及川伊勢宮遺跡」2号墳からやや後れて…わずかに大きい規模で継続して?…築造されたものだろうか)。

ここにきて、図録『相武国の古墳』の荒井秀規氏による「文献に見る相武国造」の論考を改めて読み直し、「及川伊勢宮遺跡」2号墳・1号墳の被葬者と「ヤマト王権」との関係性にも想いが及んだ。

さらには、今後も1号墳の主体部の調査によって、新たな発見が期待される一方で、やがては厚木秦野道路(国道246号バイパス)の開発のもとに、これらの貴重な古墳群が破壊されることに割り切れない思いも感じたのだった。

 

1号墳前方後円墳、北東から)        浅い周溝内に残る石群縄文時代

 

1号墳前方後円墳、東から):くびれ部がかなり細いような印象。

 

2号墳(方墳、1号墳の西側、北東から)      深い周溝と火山灰を含む土層

 

2号墳の出土遺物(小型丸底壺)

 

4号墳と、遺構によじ登る小さな蛙(南から)