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私の第三十四夜をつづります。

相模国府域を東から西へ。

 

18日午後、考古学のサークルで、市内の四之宮から東中原まで、初夏の陽射しの中を砂丘と凹地の高低差を確かめながら歩いた。
(四之宮の湘南新道関連遺跡群〔推定相模国庁跡〕から、諏訪前A遺跡・諏訪前B遺跡、天神前遺跡・神明久保遺跡、山王B遺跡・構之内遺跡を経て、国府域外の東中原E遺跡までの行程だった。)

この日の午前中は、博物館開催の講演(『更級日記の旅-古代の交通制度を考える-』)で大胆な仮説…作者一行は「まつさと」~「もろこしが原」の区間は駅路を通らずに、孝標とは別ルートで海岸沿いを進んだ、との仮説…に耳を傾けた。
そして午後からの踏査では、配布資料を片手に、縄文時代中期の海岸線(谷川より南の下田川低地のあたりだろうか?)近くで活動した人々を想像したり、また砂丘と凹地の起伏の名残りのなかに、古代東海道や谷川(やがわ)が走っていた当時の景観を探し求めたりした。

途中、幸運にも、天神前遺跡の調査現場(天神前遺跡第7地点の西に隣接する地点か?)にも立ち寄ることとなった。
天神前遺跡は下田川低地の北に連なる高まりの上に位置し、その東端には稲荷前A遺跡(「国厨」墨書土器出土)、その西には神明久保遺跡(鍛冶工房関連の遺跡)が展開する。

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この天神前遺跡の位置付けの一つとして、次のような考察がある。
平塚での鍛冶工房の出現は、8c前半の天神前遺跡第7地点に始まり、その後、神明久保遺跡や六ノ域遺跡・坪ノ内遺跡へと展開してゆく」(『よみがえる古代東国の鉄文化~相模・武蔵の発掘調査成果から~』財団法人かながわ考古学財団 2010年)
なお、天神前遺跡・神明久保遺跡の実際のデータを表から見ると次の通り。
【鉄製品出土点数のピーク時期とその点数】
*天神前遺跡 :8c前半(40点)  ・9c後半(40点)
*神明久保遺跡:9c前半(119点)・9c後半(110点)
〔註〕データの出典が示されていないので、六ノ域遺跡・坪ノ内遺跡のデータに湘南新道関連遺跡の成果が反映されているどうか確認できず、天神前遺跡・神明久保遺跡のデータのみに注目した。)
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こうしてみると、天神前遺跡は、北部の地点で「郡厨」・「国厨」墨書土器なども出土し、国衙郡衙の密接な関係性を感じさせる遺跡ではあるけれど、今回立ち寄った調査現場を含む南部も含めて、神明久保遺跡と一体的にとらえる必要があるようだ。

国府域の西半部にあたる調査現場を過ぎる頃から、足もしだいに重くなってゆく。
ただ、市内ではじわじわと開発が進んできたとはいえ、まばらに残る畑には土師器のかけらも浮いていたりして…眼を凝らせば…、かつての表採活動をなつかしく思い出したりもした(まだまだ学び足りないし、学んでもすぐに忘れてしまうのが情けない…)

ちなみに、国府域内の時期別建物数…竪穴建物と掘立柱建物の合計数…の変化とその分析については、『検証 相模国-古代都市復元への挑戦-平塚市博物館 2010年)にまとめられている
(ピーク数をもとにした分類パターンでは、天神前遺跡は8c前半に、神明久保遺跡は9c後半にピークがあり
、このパターンは国府域全体の傾向と相似関係にある。)

また、竪穴建物・掘立柱建物のそれぞれの軒数や分布については、『論叢 古代相模-相模の古代を考える会 十周年記念論集-(相模の古代を考える会 2005年)によって、詳細に分析されている。
(興味深いのは、天神前遺跡・神明久保遺跡、山王B遺跡はしっかりとした布掘掘立柱建物数が多いことだ。鍛冶工房の存在と何か関連性があるのだろうか?)

なお、天神前遺跡で鉄鉢形須恵器仏鉢・「大佛」墨書土器、神明久保遺跡で瓦塔片(第3・7・8・9地点)・鉄鉢形須恵器仏鉢、山王B遺跡で灰釉陶器浄瓶などが出土していることも注目される。

そして、今回おさらいしたことを、相模国府域の鍛冶関連地点をテーマにして、下の地図にまとめてみた。

 

≪個人的map:相模国府域の鍛冶関連地点≫
                  【地図中の は、鍛冶関連の遺構・遺物が出た主な地点】

(『湘南新道関連遺跡Ⅲ』〔財団法人かながわ考古学財団 2007〕の「鍛冶関連遺物集成表」で出土遺構数の多い地点を確認すると、
*神明久保遺跡第1地点:50
*高林寺遺跡第3地点:36
*天神前遺跡第7地点:28
*神明久保遺跡第9地点:26
*神明久保遺跡第8地点:22 
などが突出した出土数となっている。
そして、谷川の南側に立地する地点が全体の6割を占めるという様相もうかがえる。
以前、国府の鍛冶工房の意味付けに関して教わったこと…国府は生産地であると同時に消費地であること…を念頭におきつつも、相模国庁が9世紀前葉に終焉してゆくなかで、天神前遺跡・神明久保遺跡が、ともに9世紀後半において活発な活動を見せることをどうとらえればよいのだろうか?と思う。
なお、地図中で東中原G遺跡・新町遺跡の大規模な溝状遺構の要素を付け加えた…国府造営活動のなかで、これらの大溝が果たした役割は?…。)

 

なお、≪墨書・刻書土器から見る”相模国府と大住郡の活動域”≫を再掲しておきたい。

墨書・刻書土器から見る”相模国府と大住郡の活動域” - enonaiehon (hatenadiary.jp)

 

大念寺の南…道路を挟んで南に建つ「湘南新道関連遺跡」の解説碑:
遠くに大山の稜線を望む(推定・西脇殿跡が検出された地点)

天神前遺跡の調査現場:
くずれやすそうな地層で、見るからに調査がむずかしそうだった。かなりの数の竪穴住居が重なり合って展開しているとのお話だった。
この現場の東隣にあたる…たぶん?…天神前遺跡第10地点の調査では、大型掘立柱建物(2間×7間以上、東西棟)が出ていて、「鍛冶工房群を管轄する官衙施設の可能性」(『遺跡が語る地域の歴史』平塚市博物館 2004年)が指摘されている。

今は暗渠となっている「谷川(やがわ)」の流路:
構之内遺跡遺跡の東端から、谷頭が位置する山王B遺跡方面を望む。