~(1)の続き~
こうした理解のもと、これまで、伊勢原市坪ノ内・串橋・板戸・田中・下糟屋(大住郡)から厚木市石田(愛甲郡)にかけて、矢倉沢往還に沿うような古代の遺跡を旧地形図に記入したこともあった。
また、『相武国の古墳』〔平塚市博物館 2001年〕の図版「ヤマト王権の東国進出」(原図:荒井秀規)に示された”第一波”・”第二波”の二つの波にも注目した。これらの二波の道筋が、やがて古代官道として整備されていったのでは?と想像した。
そんな私が今回、秦野から帰って、家の納戸の資料棚から偶然手に取ったのが『東人の世界-発掘された神奈川県の奈良・平安時代-』(神奈川県教育委員会 山北町教育委員会 2007年)だった。
そこで紹介されている秦野市下大槻峯遺跡の「道」の写真に初めて気がつき、本当に驚いた。しかも、その調査期間は1991~1994年…何と30年も昔のことだった。
平塚市内で古代東海道が検出された2004年当時も、また、シンポジウムで木本氏の見解を知った2006年当時も、秦野市下大槻峯遺跡の東西道路の成果について、県内の画期的な調査例として耳にしたことはなかったように記憶する。
(この秦野市下大槻峯遺跡の「道」に大いに励まされて、相模国の古代道路のイメージを、矢倉沢往還ルートを意識した形で、 ≪個人的map≫ をつくりながら、「下大槻峯遺跡」の情報をネットの中で探索した。)
そして、さらに有力な論考に出会うことになった…わらしべ長者みたいだ…。
それが、『古代神奈川の道と交通』(田尾誠敏・荒井秀規 2017年 藤沢市文書館)だ。
この本こそ、ずっと私が欲しかったものに違いなかった。さっそく18日、藤沢に出かけ、入手した。思った通り、私が知りたいことばかりが書かれていた。
「第7章 相模国府をめぐる交通 2 東海道駅路の発見 相模国府から内陸への道」
そこには、木本雅康氏の推測したルート上で「下大槻峯遺跡」の道路遺構が発見されたことが書かれ、次のような考察でしめくくられている。
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…在地首長の拠点を東西に結び後には伝路の役割を持つようになる丹沢山麓の東西幹線道路と、相模湾沿いの駅路東海道を連接する主要道であったことは疑いない。この道路を通じて、内陸の郡家や拠点集落から、大住郡家や相模国府にアクセスしていたのだろう。そして木本説のように、本格的に整備が行われる以前の、最初期の「東海道」であったことも考慮する必要があるだろう。
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((3)に続く)