~(2)の続き~
下大槻峯遺跡の「道」について、『古代神奈川の道と交通』では「本格的に整備が行われる以前の、最初期の「東海道」であった」可能性が改めて記されている。
(2006年の『復元!古代都市平塚』のシンポジウムで、木本雅康氏によって投げかけられたさまざまな課題について、長く中途半端な気持ちできた。2024年現在の古代交通の専門的研究のなかで、2017年のこの論考がどのように位置づけられているのかは分からないけれど、田尾氏・荒井氏による明確な答えをもらったように感じた。)
さて、秦野から帰ったあと、自分なりのイメージで地図を作り始めてはみたものの、知識が不正確・不十分なため、調べては修正し、調べては修正し…を何度も繰り返した。
この地図のなかでもっとも肝心な要素は、平塚市構之内遺跡・東中原E遺跡から秦野市下大槻峯遺跡(『下大槻峯遺跡 Ⅲ』かながわ考古学財団 1999年)に向かう内陸ルートだ。
その内陸ルートを推定する最終的な判断材料として、
①鈴川渡河地点:
◇平塚市金田地区の大字「寺田縄」小字「出口」から岡崎地区の大字「矢崎」小字「道ノ坪」にかけての斜行地割線
参考資料:木本雅康氏による推測ルート、『古代神奈川の道と交通』(田尾誠敏・荒井秀規 藤沢文書館 2017年)
②途中経由地点:
◇真田・北金目遺跡群の「大型の道路」(6区、30A・B区にかけて断片的に検出 最大幅約6.6m 断片的に200mを確認 ほぼ東西方向でやや北に振る 10c代を中心に使用)
参考資料:『真田・北金目遺跡群』(平塚市博物館 平塚市社会教育課 2013年〕
が主な決め手となった。
(当初は金目川の旧河道域を避け、現在の秦野平塚線に沿い、南矢名を抜けるルートをイメージしていた。しかし、木本氏の推測ルートである”斜行地割線”が魅力的な字名(「出口」・「道ノ坪」)をともなうことや、その延長線上に真田・北金目遺跡群の「大型の道路」検出地点がピタリと位置することから、東海大学構地内を「やや北に振る」方向で西に抜け、曽屋鶴巻線に沿うルートに変更した。)
【追記】この区間の推定ルートについては、下大槻峯遺跡の「道」の方向性(「南にゆるく湾曲しながら東西方向に伸びている」と、真田・北金目遺跡群の「大型の道路」の方向性(「やや北に振れる」)との間で整合性がとれない…直線的には結べない…ことが課題として残る。
このような試行錯誤・紆余曲折を経て、現時点では次のような map となった。
≪個人的map:大住国府と余綾郡内陸部を結ぶ推定ルート≫
(黄色の点線で示したルート上で、真田・北金目遺跡群付近の ● は「大型の道路」検出地点)
(地図をクリックすると拡大されます)