夏の記憶が薄れはじめた11月、十一面観音像を巡る旅に出かけた。
(国宝の七体の十一面観音像を巡るという魅力的な企画のツアーだった。一人旅の緊張や日々のルーティンから解放され、訪ねた仏様を臆することなく見つめ、その表情、姿の印象を長く心に残したいと願った二日間だった。)
七体の仏様たちに出会い、そのつど圧倒され、心を奪われる。感動が次々と上書きされてしまいそうで不安に感じた。
濃密な二日間を経て家の玄関にたどり着いた時、自分を浦島太郎のように感じた。今はまだ、目をつぶれば、仄暗いお堂や収蔵室で見つめた仏様たちのそばに行くことができる。それもやがて日常の波に洗われて、かすかな記憶の彼方に遠のいてしまうのだろう。
今回の旅の思い出のよすがとして、いくつかの風景を残しておきたい。
2012年に訪ねた渡岸寺観音堂…その十一面観音像を初めて眼にして打ちのめされた。その時の記憶は今も残り続けている。
ーー眼の前の像からは、壮大でエキゾチックな空気が漂っていた。ためつすがめつ眺めまわさないではいられなかった。仏像ではない別の何か? 異国の彫刻家の手になる完璧な造形?
法隆寺の百済観音像が、まさしく”神像”として私の前に顕現したのに対し、渡岸寺の十一面観音像は、”異国の完璧な芸術彫刻”としてそこに存在した。
仏様として拝するには、余りに美しさが際立っている。異様に重厚な頭上面でさえ、宝冠のようにまとまり、均衡を保っている。ましてや、全身に美しく流れる音楽的な(?)曲線、両性具有の肉体の妖しさ、見知らぬ異国の感性をうかがわせる思索的な面差し…。
もし法隆寺金堂壁画のような平面におさまっていたならば、あの観音菩薩・勢至菩薩のような仏性をまとうのかもしれない。しかし、いったん複雑な立体造形として私たちの視線にさらされた瞬間、神秘的な仏性は消えて、蠱惑的な造形美にすり替わってしまう。私は今、そのような運命のもとに誕生した”仏像ではない何ものか”を観ているのかもしれないーー
そんなふうに、私の頭はぐるぐると混乱するばかりなのだ。
▼観音堂を出たあとに眺め渡した湖北の山並み
次の御開帳には再訪できないのでは?という思いもあり、遠くからそのお顔をありがたく拝見した。
帰宅後、手元の仏様の資料の中から、六波羅蜜寺像に似通う写真を探してみると、法界寺の阿弥陀如来像と印象が重なった(やはり、できれば全身のお姿も拝見したかったと思う)。
多くの人々が行き交う境内の一角に「阿古屋塚」があり、その右手の石柱に「奉納 五代目 坂東玉三郎」と記されていた。こうしたところで当代玉三郎の名と出会ったことも楽しかった。
▼辰年御開帳のポスターと境内の「阿古屋塚」
初めて訪ねたお寺の参道は東高野街道に面していた。
その細いアプローチを経て境内に入る。案内を待つ間、「ほしい(糒)」を使った椿餅を買い求めた(私の好きな和菓子は、この”道明寺”と”州浜”だ)。
やがて堂内に招かれ、尼僧様のお話をうかがった。
拝見した仏様は、きっちりと正面を見つめ、何か強い意志を秘めているような揺るぎない姿で直立されていた。菅原道真公ゆかりのお寺であることを教えていただき、仏様の峻厳なたたずまいは、そのまま道真公のイメージにもつながりそうに感じられた。
(堂内奥の聖徳太子孝養像も、その表情の厳しさで眼を引く。尼僧様はこの聖徳太子像について、「夜、このお堂に独りで入るのはためらわれるほど…」と真面目に語っておられた。)
旅から帰って、境内で買い求めた「椿餅」という”道明寺”を味わいながら、私たちを見送ってくださった尼僧様の笑顔と明るい声を思い出す(あらためて桜の時期にゆっくり道明寺周辺を歩いてみたいと思った)。
▼道明寺山門の参道と境内のキリン像
3年前のコロナ禍のさなかに上野で拝した仏様に、今回は多武峰に近い小さな観音堂で再びお目にかかった。
暗い控室から、まばゆい光に溢れたカプセルのような収蔵庫内に入る。仏様を横から見上げた時、その堂々とした厚み、ボリューム感に改めて圧倒された。
また横顔の鼻筋の美しさにも気がついた。
(『古寺辿暦』という本のなかで、町田甲一氏が「…獅子舞の出来のわるい獅子頭の鼻を連想させるような、無神経なつくり…」とまで記していることについて、私はやはり納得がゆかないのだった。)
また、その後ろ姿の肩甲骨あたりの盛り上がりは、今回も『なぜ、こうしたラインになったのだろう?』と感じた(渡岸寺の十一面観音像のような自然なラインではないことには、何か理由があるのだろうか?)
ぐるりと正面側に戻って、その肩や腕、胴部のシルエットを眺め直す。
両肩の張りを隠すような天衣のライン、そして胸から胴にかけてハート形(♡)に絞られるラインが浮き上がってくる。
つまり、天衣に覆われた両肩・両腕によって ∩ 字状に空間が切り取られ、その隙間に引き締まった胴部がはめ込まれる形になっている。
肩・腕のボリューム感がいっそう際立つような造形が、あえて意図されたものであるならば、そのアメフトの防具を思わせるような(?)肩の重厚さは何を表徴しているのだろうか。渡岸寺像に比べ、聖林寺像はなぜか難解な存在のままだ。
▼季節外れのシャクナゲの花(仁王門前で)と蕾のままのシャクナゲ(鎧坂で)
今春4月に初めて拝した仏様に、半年後、再び逢うことができるとは…。
美しく古色を帯びた金堂から安全な宝物殿へと移られた仏様は、やはり、少し居心地が悪そうに立っていらっしゃった(小じんまりとしたお堂のなかで人々の祈りを一身に受け留める他の六体の仏様のように、できることなら、金堂のなかでお目にかかりたかったと思う)。
わずかに開くような朱い唇や西洋人形のような頬と、その神秘的な眼差しとの齟齬が強く印象に残る仏様だ。中庸を保つ自然な姿形に、どこかお地蔵様に通じるものを感じた。
いつも写真を眺めながら、この仏様の不思議な雰囲気はどこから来るのだろう…と思ってきた。エキゾチックな青年のような容貌と女性的な身体、長い髪、そして異様に長い右腕…渡岸寺の十一面観音像にも通じる異国の雰囲気を漂わせたこの仏様が、なぜ光明皇后の姿に重ねて語り継がれているのだろう…と不思議だった。
しかし今回、ひざまづきながら初めてその姿を拝した時、これまでの疑問はすっかりどこかに消えてしまった。同じツァーの方と顔を見合わせて「素晴らしいですねぇ…」とうなづき合った。
疑問の答えは見つからないけれど、「法華滅罪之寺」のお寺で素直に仏様を拝することができたことが嬉しかった。
▼法華寺の案内板と庭園に咲くキキョウの花:
とうとう最後の七つ目のお寺にたどり着く。
車道から農地を隔ててそのお寺のなつかしい姿を確かめた途端、何ともいえない気持ちになった。
2001年に初めて、三山木駅から歩いて観音寺を訪ねたのだった。その時にお話をうかがったご住職はすでに亡くなられたことを知った。あぁ、それほどに年月が流れてしまったのか…さまざまな思いがよぎる。
私たちの時間の流れとは別の時間の流れのなかで、仏様は変わらずにお堂に住まわれている。これからも変わらずに南山城の地にいらっしゃるのだ。なんとありがたいことだろう…いつまでもそうあってほしい。
▼現在の大御堂観音寺の遠景と2001年当時の参道
▼拝観後に見上げた空には旅の終わりを告げるような月が。