enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

16日夜、照る月を文中に見る。

 

16日夜、”道長が見た月”は平塚の空には無かった。よほど雲は厚かったか…。

そのかわりに、読みさしの『十一面観音巡礼』白洲正子 新潮社)のなかで、”姨捨山に照る月”を見た。白洲正子さんが拝した知識寺千曲市の十一面観音像の姿を想い描きながら。

その知識寺の仏様は”立木仏”というものらしい。
月光を浴びた冠着(かむりきやま)を背にする知識寺。そのお堂のなかには立木から顕れた美しい仏様がたたずみ、肌には鑿の跡が残っている。
平安時代、満月の光に照らされた大きなこけしのようなお像を、神のように畏れ多く拝した村人もいたのだろうなぁ…と想像した。

(ところで実資は、道長が詠んだという”望月の歌”を、なぜ日記に記したのだろう。少なくとも、道長の歌に感じ入って書き留めたわけではないと思うのだけれど…。
実資という人については、”(歌人)相模を懐抱して秀歌を案ずるような大江公資を大外記にするのはどうだろうか…?”というような意見を述べたとされる人物だけに、実務家・皮肉屋といったイメージを抱いてきた。そのためか、道長の歌を日記に書き残した実資の本意は?と、つい無粋な疑問も浮かんでくるのだ。
妄想の追記:かつて屏風歌を詠むことを断わり、再び返歌を詠まずにすませた実資…実は、”和歌嫌い”だったのかもしれない。そして、豊かな才能をもてはやされて時流に乗る人々を冷ややかに見ていたのかもしれない。とはいえ、”歌を詠もうとしない興覚めな存在”であることに多少の気おくれもあって、自分の矜持を保つためにも、宴の次第を書き留めておくことにしたのではないだろうか?)

道長が見た月”が雲の奥に隠れた夜、白洲正子さんとともに、知識寺のほかにも、京都・月輪寺の仏様も訪ねた。
そして、『今夜、”道長が見た月”を眺めた人はどこかにいるのかなぁ…』などと思いながら眠りについたのだった。 

 

図書館で借りてきた『十一面観音巡礼』白洲正子 新潮社)