19日朝、急な寒さに薄着を後悔しつつ、東逗子駅から神武寺に向かった。去年の夏は裏参道を歩いたので、今回は表参道を選んだ。趣きのある参道の竹樷を抜ける風は沢の音のように聴こえ、思わず耳を澄ませてしまう。
夏の裏参道ではほとんど人に出会わなかったけれど、今回は細く小暗い坂道で、散歩の人や参拝する人、鷹取山に向かう人などに数多く出会った。
滑りやすそうな路面と階段に気をつけながら、その凝灰岩の地層を横目で眺めて上ってゆく。しばらくすると道は緩やかになり、あっけなく山門に着いた。いよいよ神武寺の十一面観音像にお目にかかれるのだ。
秋の明るい光のなかの薬師堂…初めて訪れた去年の印象が”銀閣寺”とすれば、今回のそれは”金閣寺”だろうか…お寺とはこれほど表情を変えるものなのか。
参拝する人々は、紅白の布紐に触れながら薬師堂の中へと導かれてゆく。
(そういえば、先だっての京都・六波羅蜜寺でも、集まった人々は次々と結縁の紐に触れて願いごとを祈ったのだ。)
厨子の中に座す薬師如来様は彫眼で、穏やかな親しみやすい表情だった(この仏様の顔の横幅に合わせるように、清凉寺式の髪型を平たく押し潰したような印象で、どこか帽子をかぶっているようにも見えたりする。薬師様のそばに、四天王や十二神将が賑やかにそろっているのも頼もしい)。
続いて、薬師堂から崖下の客殿に向かう。いよいよだ…。
細い切通しを抜けると庭の上に切り抜いたような空が広がる(切通しの岩壁にはイワタバコの葉が茂り、庭の木の幹にはセッコクの花が咲いていた。季節外れの花に出会えるのは嬉しいような、困ったことのような…)。
客殿の十一面観音像のお顔を見上げ、どこかで拝したことがあるような印象を持った。そして、先だって巡った近江・畿内の観音様たちとは時代が異なる(下る)こと、造像にあたる仏師の在り方もおのずと異なるであろうことを実感した。
【左】さざなみ状の凝灰岩の道 【右】バウムクーヘンのような地層
薬師堂(左:2024年11月19日 右:2023年7月8日):
この日は紅白の布紐をたどって薬師様を拝した。思わず「身体健全」を願った(今となっては、なぜ若い頃の自分が神仏に祈ることに抵抗があったのか、良く分からなくなっている)。
鎌倉後期の十一面観音坐像・釈迦如来坐像などが祀られている客殿:
寄棟造りの屋根のてっぺんに載る大きな宝珠が印象的だった。
【左】客殿前に並ぶ平たくて丸い石:昔の建物の礎石だろうかと、つい写真を…。
【右】「開創一千三百年 記念大開帳」のチラシと「特別参拝券」:
十一面観世音菩薩坐像の解説文には「明治初年の神仏分離の際、鎌倉荏柄天神社から遷座したと伝わる像。この度、逗子市の重要文化財に指定されました。」とある。
薬師堂前の楼門の天井に描かれた四神図:
昨夏は「白虎」・「朱鳥」だけを写して帰ってしまった。今回改めて「青龍」・「玄武」も撮影した(この絵と同じように、薬師堂内部の程よく古色が加わった装飾も美しかった)。
帰り道の眺め:
沼間から相模湾へと流れ込む田越川の古代の景観を想い描けそうな眺めだった。源義朝の時代、頼朝の時代、『吾妻鑑』が成立した時代…この場所からの眺めも、大きく移り変わって現在に至っているのだ。
~参拝後に~
市指定の史跡「みろくやぐら」、そして「こんぴら山やぐら群」に立ち寄った。
「みろくやぐら」には中原光氏の記銘のある石像(弥勒菩薩坐像)が納められている。
(中原光氏という舞楽師が活躍した時代、舞楽面はどのような人々によって作られたのだろう。大陸や朝鮮半島から伝わったという舞楽面の作り手の系譜を遡った時、10世紀の東国の作り手にまで、たどり着いたりするだろうか。もしたどり着くならば、10世紀の作ともされる伊豆山男神立像の頭部前面は、そうした作り手によって造形された可能性はあるだろうか…「みろくやぐら」の前で、私の妄想が広がっていった。)
「みろくやぐら」の説明板
「こんぴら山やぐら群」の説明板
細い山道の片側の壁に多くのやぐらが並んでいた。どれも今は壁龕(へきがん)状に削られ、草に覆い隠されているものもあって物寂しい姿だ。
帰宅後、「神武寺境内図」(「神奈川縣三浦郡田越村沼間 神之嶽 醫王山神武寺薬師如来境内全圖」明治26年)のなかで、神武寺本堂(現在の客殿の位置か?)の横の道(現在の表参道か?)に「池子道」の名が記されていることを知る。
元の時代の緑釉長頸瓶や荏柄天神社の十一面観音坐像が、鎌倉から「池子道」などのルートを経て神武寺へと運ばれてくる情景を想像する(そういえば、藤井寺市・道明寺の十一面観音様も、菅原道真公が自ら刻まれたもの…と伝えられていた)。
客殿の観音様がもともとの場所を離れ、この神武寺へと移られた背景は分からないけれど、今も大切に守られ祀られていることは確かなことだった。24日までの御開帳に多くの方々が訪れ、心を満たされることだろうと思う。