先週末、足腰の治療中の身ながら、たくさん歩き回った。
23日の午後、小田原でわずかな時間ではあったけれど、千代仲ノ町・千代北町遺跡などの調査発表を聴くことができた。
(久しぶりの小田原…お堀端通りには人力車が留まり、人々がにぎやかに行き交っていた。通りの北の先には丹沢の山容が顔をのぞかせていて、城下町・宿場町であった小田原の新しい魅力を感じた。いいなぁ…街の中心にお城とお濠があって…)。
24日の午前、博物館の考古学分野の行事として、多くの人々と一緒に平塚市の市街地の遺跡を巡り歩いた。中心となるのは古墳時代から奈良・平安時代の遺跡で、平塚の地がもっとも畿内の政権と繋がり、多彩な歴史を残した時代の遺跡だった。
(ただ、残念ながら開発と引き換えに真土大塚山古墳も相模国庁跡と推定される遺跡も消滅した今、ひたすら開発跡地の現状を確かめることになるのだけれど…)。
同じ日の午後は東京に向かい、初めて半蔵門ミュージアムを訪ねた。
洞窟寺院のように静かな空間で「小川晴暘と飛鳥園 一〇〇年の旅」の仏様たちを巡り歩いた。
先だって奈良で再拝した聖林寺の十一面観音像を撮影した作品にも出会えた。そして、撮影した小川光三氏の視点(ことに側面から切り取ろうとした視点)に強く共感した。また被写体となったさまざまな仏様の像容を眺めるなかで、素晴らしい写真作品には、素晴らしい仏像の作用のもとに結晶してゆく”眼”が存在するように感じた。
さらに常設展示場では、髷を美しく結い上げた大日如来坐像にもお目にかかった。
すでに夕方近くとなり、疲れた身体と癒された心がない交ぜになって、半ば放心状態になっていた。夢見心地のまま、休日の東京駅の雑踏を通り抜け、日本橋の東京長浜観音堂にたどり着いた。
上野・不忍池を経て日本橋に移った小さな観音堂は、一区切りとなる時期を迎えていた。
思えば、不忍池の観音堂を最初に訪れたのも、渡岸寺の観音様とのゆかりを感じたからだったと思う。そして今、渡岸寺の小さな十一面観音様に巡り逢えたことも、一つのご縁なのかもしれなかった。
その唇の紅色、精緻な造形と装飾に見入りながら、このような愛らしい観音様が、あの渡岸寺観音堂にいらっしゃったのか…と不思議な気持ちになった。
足腰に疼き始めた痛みを忘れて、名残り惜しい気持ち、感謝の気持ち、満たされた気持ちで、東京の小さな観音堂をあとにした。
歩き疲れて癒されて、良い休日だった。
【小田原で:お堀端通りから見る丹沢の山容】
【平塚の市街地で】
左:「古代東海道 駅路跡」(セイユー敷地内)の解説板
中央:「真土大塚山古墳」付近の標柱(神明社境内)
右:「稲荷前A遺跡」の解説板
【東京長浜観音堂で】
チラシといただいたカード
カード裏の解説文と”截金(きりかね)”の説明パネル:
解説文のなかの「拭き漆」について、観音堂の方に教えていただいた。仏像の仕上げには、彩色や箔を施したり、素地のままだったりのほかに、こうした「拭き漆」という”ナチュラルメイク”のような手法があることを知った。