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私の第三十四夜をつづります。

2012.2

2012.2.9 
 7日、一年ぶりに演奏会を聴く。昨年3月5日、『ルチア』を聴いてから1年近くが過ぎたのだ。音楽は雨水のように心を潤す。だからできればもっと音楽を聴きたい。しかし、私にとってオペラはまさしく高嶺の花だ。
 はるか昔、ミラノのスカラ座で、偶然にも林康子さんの『十字軍のロンバルディア人』を3000リラ(当時300円ほど?)で立ち見する機会があった。チケットを買うために、午後の長い時間、地元の人たちと一緒に行列待ちする経験も楽しかった。食堂の店員さんのような若い人たちが、仲間同士、休み無くおしゃべりをしていた。地味で物静かで小柄な初老の人も、スティ-ヴ・マックィーンに似た野性的で知的な眼をした人もいた。天井桟敷へと昇る階段には、ミラノの市井の人々と音楽の歴史が刻まれているように見えた。ミラノでは、音楽は食卓の一輪挿しイメージ 1の花のように、自分の暮らしのなかに咲いているものなのかもしれない。
 いつしか私には音楽がはるか遠いものになってしまっていた。そして7日、私は東京オペラシティのチケット売り場で一輪の花を買い求めた。しかし、その花は豪華な花束だったのだ。文化庁主催「明日を担う音楽家による特別演奏会」・・・散文的なタイトルの枠組をはるかに超えて、個性的で華やかで溌剌とした声がホールの隅々まで活き活きと響き渡る。
 ことに『仮面舞踏会』のアリアでは思わず胸が躍った。『仮面舞踏会』・・・かつての市原多朗さんの、心臓を収縮させるようなアポロン的な輝かしい声、天性(神の祝福)として備わったものであるかのような精緻な歌いまわし・・・耳の奥に残されている音の喜びを思い出しながら期待をこめて聴いたのだ。そして、その西村悟さんの声には、市原さんの声質とは別の、豊かな水を湛えた湖のような奥深さを感じた。恵まれた体
格と声量を備える新しい世代のテノールとして、これからどのような音楽空間を生み出してゆくのだろうか。寒気のゆるんだ夜、新宿駅南口の混雑を通り抜け家に帰り着くまで、幸せな時間を過ごした。                                     
                            
                                                        スカラ座(ミラノ 1984年) 
 
2012.2.16 
 おそらく私だけが覚えているのであろう一つの詩。
 40年以上も前、17歳のA.ランボーの面影を漂わせていた高校生が書いた「詩論」。今、私が空で覚えている詩はこの一篇だけだ。 
 ランボォは二十歳を過ぎると詩作をやめ、砂漠の商人となったという。
 「詩論」を書いた高校生はその後、「商学部に入りました」とうつむき加減に語り、4年後には東京のメーカーに就職した。私は60歳になった今でも、薔薇色の頬をした少年・・・若き詩人であった少年が、雑踏の向こうから歩いてくる・・・そんな幻想を見ることがある。
 
 
2012.2.19
 
 冬の陽が物影を斜めにして
 風はなおさら冷たい街を歩く 
 ふと 季節の動きが 道をよぎったりする
 
 はるかな時の円環は限りなく閉じていても
 眼の前の季節は転生して いつも新しい
 
 時の倦怠をすくいあげて
 再生へと昇華する季節の動き
 その くりかえし新しい姿でたちあらわれる予感を何と呼ぼう
 
 
2012.2.29 
 
  雪の止まない朝
 ひとつかみの土の上で
 ヴィオラがまどろむ
 
 花びらの中心から
 ヴィオラの夢は
 土のなかへともぐりこんで
 あたたかい
 
 ビルの林の向こうには
 春の野が広がっているのだ
 光と雨と風 そして新しい土の香りにみたされた場所
 
 今 ヴィオラはまどろみそのものとなって
 春の野のなかにある
 
 それは冬に生まれた花の
 最後のまどろみ