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私の第三十四夜をつづります。

再び不動平へ(3)

 17日に初めて確認した地蔵尊の石碑、また再び訪れた大光寺跡(推定地)と「不動平」推定地、その道筋で撮った写真をまとめておく。
 ①地蔵尊石碑(1680年造立)
 石碑の文字は、写真から判読できないものもあり、内容については不明のままだ。
 地蔵尊は、なぜか、お供え餅のような石の上に載せられていた。ぐらぐらと不安定で、倒れて傷つくかもしれない。このまま保存されずに、野ざらしのまま朽ち果ててゆくのだろうか。もっと多くの人に見てもらえると良いのにと思う。 
 
下吉沢の山を背に佇む地蔵尊石碑…大光寺跡(推定地)にあたる畑地より一段高い位置に立つ。地蔵尊石碑の左手のもう一段高いところに細い道があり、尾根道となって「不動平」推定地に至る。
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地蔵尊石碑の位置から大光寺跡(推定地)の北半部を望む…奥の小高い丘に林がある。弁天通古墳群の遺跡位置だろうか。
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②大光寺跡(推定地)
 廃寺となった大光寺の立地は、明治16年の地形図では、西の下吉沢の山稜を背にし、東を南北に走る道…大光寺跡(推定地)を避けるように屈曲する…や、不動川(江戸時代の”がんまん川”)に面していただろうことが読み取れる。しかし、現在は小田原厚木道路が寺域推定地を斜めに横断して、当時の景観を思い描くことは難しくなっている。
 また、この大光寺跡(推定地)の北側は、平塚市の遺跡№49「弁天通古墳群」にあたるようだ。『平塚市史 11上 別編考古(1)』には、「…円墳からなる古墳群のようであるが、詳細はわからない。畑の中に大石が残されていて横穴式石室の残骸であろうか。周辺からは土師器の細片が採集されている。」と書かれている。
 私が見た畑の中に、まだこの大石が残されているのだろうか。また妄想が浮かぶ…その”大石”は、大光寺に係る石である可能性はないのだろうか。
 
東から大光寺跡(推定地)の北半部を望む…左手奥に地蔵尊石碑が立つ。
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