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私の第三十四夜をつづります。

7月7日の蝶。

 

4月になって蝶の調査を再開してから、ヤマトシジミは4月に2回確認したあと、見かけることがなかった(おそらく頻繁な草刈りのためではないかと残念に思っていた)
その草刈りの頻度に負けずにシロツメクサが広がった”草園”で、7月7日、ようやくヤマトシジミの姿を撮影できた。

もうシロツメクサの花に夢中で、私がどんなにカメラを近づけようが、眼に入らない。

『そんなにその花が好きなの…?』
『好き!』

7月7日…街の七夕祭りは終わったけれど、シジミ蝶の季節はこれからのようだ。今年の夏も元気にいっぱい飛びまわってほしい。

7月7日の総合公園で:

(総合公園にクララを植えたら、オオルリシジミも引っ越してきてくれるのかな? そして、ヤマトシジミのようにシロツメクサの白い花に留まってくれたりするのかな?)

やれやれの6月から7月へ。

 

6月との境目を意識しないまま、7月を迎えてしまっていた。

3日、平塚の街では七夕祭りが始まった。その3日の朝刊を一日遅れで開く。
私へのご褒美のように、二つのインタビュー記事が混じっていた。

一つは上野千鶴子氏、もう一つは村上春樹氏。
(上野氏の著作で知っているのはたった2冊。まだ若い頃に『スカートの下の劇場』を手に取り…たぶん…、3年前に『家父長制と資本制』を何とか読み通した。村上春樹氏の物語は、『海辺のカフカ』を読んだあとは手に取っていない。)
その上野千鶴子氏の記事の中に印象的な言葉があった。

マジョリティーであるということは自分が何者かを問われなくてすむ特権なのです。」

身体的暴力や目に見える暴力だけでなく、人にノーと言わせない構造的な強制力も暴力と呼びます。(2026年7月3日『朝日新聞』朝刊から抜粋・引用)

社会の構造的な在り方が分かりやすい言葉でえぐり出され、「ほらっ! よく観てごらん!」と提示されていた。『そうだな…』『そうだよね…』と思う。

もう一人の村上春樹氏の記事では『もう77歳に…?』という一種の感慨をもった。
すでに老作家ともいうべき年齢に達した村上春樹氏が、どのような新しい物語を書いたのだろうか?
『海辺のカフカ』以降に書かれた物語を読んでいない私は、彼が今なお”ワンダーランド”の空間に入り込んでは「やれやれ」とつぶやきつつ、リアルの世界に向けて原稿を送り続けている姿を想像する。

私と次兄との中間の世代の村上春樹氏は、記事の中でこう語っていた。
そしてこの物語を書くことで、僕自身もなにかひとつ成長したとうことを、けっこう感じているんです (2026年7月3日『朝日新聞』朝刊から抜粋・引用)
77歳でもまだまだ成長できる…新作を読んでみようかな…ふとそう思った。

 

梅雨空の七夕飾り

 

梅雨の合間に惨憺たる床掃除①

 

18日の夜中、眠りかけていたところに家の電話音が大きく鳴り響いた。
『こんな遅くに…間違い電話?』
半兵衛を決め込んだが、電話音が長過ぎた。
しかも1回途切れたあと、すぐに掛け直してくる。
その2回目もかなり長かった。静けさが戻り、不安になる。
『もしかして兄から…?』と起き上がる。
携帯を確かめると、ここにも兄からの着信履歴がある…しかも3回も。
心臓が高鳴った。
『何かあったんだ…助けを求めてるんだ…』
覚悟してから携帯電話に返信する。
兄の携帯から聴こえてきた声は若く、はっきりと、ゆっくりしたものだった。救急看護師さんの声に違いなかった。
現状を理解した。予想に近い事態だった。
眠気は吹き飛び、服を着替え、家を飛び出し、夜道を走った。
70代半ばの全速力で、駅前のタクシー乗り場まで一気に走った。
私を待っていたようにタクシーが滑り込んで来るのが見えて、少し心が弛んだ。
乗り込んで行先の病院名を告げると、すぐに発進した。
(「救急外来でよろしいですか? 速く走りますので、ご気分が悪くなったらおっしゃってください」
運転手さんは、
私が急病なのだと思って気遣ってくれる。「大丈夫です」とだけ答えた。)

走る窓から夜の市街を眺める。
『病院まで、こんなに遠かったんだっけ…?』
頭の中がグルグル回るうちに、病院に到着した。

病院の救急外来窓口は夜目にも明るかった。運転手さんが入り方を教えてくれたのに、自動ドアの前でもたもたしてしまう。車から運転手さんが大きな声で教え直してくれる。

受付の前に立ち、兄の所持品の入ったビニル袋を受け取り、事務的なやり取りをするうちに、少し落ち着きを取り戻した。
(あとは指示された通りに動くしかない…私ができることをするだけだ…)
細長い廊下に並ぶ張りのある長椅子に腰かけ、じっと待っているのが、私だけではないことも妙に心強かった。
(その夜、長椅子で過ごした3時間余りの間に、10組ほどの家族が次々と訪れては、じきに去っていった。それぞれの家族の間で密やかに交わされる会話が聴こえてくるなかで、さまざまな思いが駆け巡った。)

どれくらい待ったろうか、治療室の自動ドアが開き、私に連絡してくれた看護師さんに導かれるまま、治療室に入った。ベッドに寝かされている兄は、医師から、これから受ける検査の説明を受けているところだった。
すでに大怪我の治療は終わっていること、受答えができていることが分かり、それだけで充分安心した。

頭と腕がパックリと裂け、膝を打撲し、鎖骨を骨折したけれど、とにかく、兄は大丈夫だった。

兄の身体は救急のお医者さんや看護師さんたちが守ってくれたのだから、あとは私ができることをする。頑張るぞ、と思った。

全ての処置・検査を終え、薬をもらい、3時に救急外来を出た。
(2時あたりから患者さんの数は少なくなり、深夜2時頃の独特な空気感を味わった。)
車椅子の兄とともに、タクシーで兄の家にたどり着く。
もう、日は変わって19日になっているのだった。

梅雨の合間に惨憺たる床掃除②

 

一人暮らしの兄の家に入る。
まず、兄が少しでも休めるように寝床を整える。
(数時間後には再び病院で専門外来の診察を受けることになっている。兄もどれほども眠れないだろうけれど、とにかく休んでもらいたかった。)

かつて5人の家族が暮らしていたその家は、幸いにも木の床だった。
その床の上には、500円玉ほどの水玉の形の鮮やかな血が点々と連なっていた。
階段から廊下、居間、廊下、洗面所へと、兄が血を流しながら歩いた痕跡がはっきりと見て取れる。その水玉模様の血痕を避けながら歩く。
なかでも、転落した階段部分は血の海になっていた。
生まれて初めて見る光景だ。
(TVの刑事ドラマの事件現場そのものだ…犯人が血痕をふき取っても、鑑識係が調べれば、みんな青く光って浮き上がるはずだ…そんなことを連想した。)

疲れているはずなのに、俄然、スイッチが入った。
猛然と、床掃除に取り掛かった。
洗面所には血まみれのタオルがいくつか落ちていた。雑巾が見当たらなかったので、まずそれらのタオルを洗う。これが凄かった。洗っても洗っても、真っ白な洗面台の排水口へ、トマトジュースのような水が流れてゆく。どれだけの血を含んでいるのだろう…兄は出血多量で危なかったかもしれないと思った。
この洗面所から、廊下、居間へと順繰りに血痕をふき取ってゆく。それぞれの場所を一回、二回、三回と繰り返して綺麗にしていった。一回目で見落としていた血痕を二回目でふき取り、二回目でも見落としていたものを三回目でふき取り、ようやく普通に歩ける床になった。一心不乱だった。
(このあたりで、私の頭は過剰な覚醒状態に変わっていたと思う。)

最後に、最も大きな血溜りになっている階段部分と玄関前の廊下に取り掛かった。
階段下にかがんでタオルを握っていた時、玄関の窓硝子から、夜明けの淡い光が射していることに気がついた。
『もうすぐ夜明け…あと少しで終わる…あと一頑張り…』
(それにしても、なぜ、これほどの血が噴き出すのだろう? 階段のヘリが凶器になったのだろうか? 高齢者の皮膚や筋肉は、簡単に裂けやすいものなのだろうか?と不思議に感じた。)

おぉ、綺麗になった!

ふだん通りの状態に復元したら、ふだんの暮らしを再現できるのだ。
兄が起きてきた。間に合った。

でも、次は流しの食器と排水口を綺麗にしなくては。
レンジ周りも冷蔵庫のなかも綺麗にしなくては。
ゴミもまとめなくては。
玄関のたたきも水で洗いたいし、庭に散らばっている剪定枝もどうにかしたいし…。
気になるところが次々と眼に入って切りが無かった。

そして、病院の予約時間までに、私ができることは全てすませたと思った途端、瞼に皺やたるみがどんよりと押し寄せたような気分になった。

ありがたいことに、兄は自力で歩くことができたし、薬を飲むための朝食も自分で摂ることができた。あとは、大怪我が治ってゆくまで、兄の体力と気力の底力を信じるしかないのだ。頑張れ、兄貴!

梅雨の合間の悪夢のような床掃除が終わり、日常に近い19日の朝がやってきた…。兄の子供たちにも安心してもらえそうな朝だった。

梅雨の合間を楽しむ。

 

クチナシ、合歓の花…六月という特別な季節がめぐってきた。
鈍い光が射すなか、やや沈んだ空気がたゆたうなか、細い雨、あるいは強い雨脚のなか、六月という季節は秘かに語られる。

6月6日の合歓の花:
六月は光も風も雨も、ほかの季節とはずいぶん違う混じり方をする。だから、すぐ六月だとわかる。だから、六月になった…と気がつく。

金沢文庫で

13日、金沢文庫に出かけ、月例講座に参加した。
この日の講座…真言律宗の称名寺とゆかりのある”いわき”の長福寺・薬王寺(鎌倉時代には真言律宗の拠点となっていたという)の歴史と美術について…は、もちろん私には初めて知ることばかりだった(今年初めて会津のいくつかのお寺を巡っただけの私にとって、”浜通り”や”中通り”は未知の世界そのものだったし、それらの地域を擁する”磐城国”の大きさ、奥深さははかり知れないものに思われた)

また、特別展のなかで見たばかりの薬王寺の仏画「弥勒菩薩像」…色調が美しく、生き生きとした仏画だった…が、かつて拝見した称名寺の「弥勒菩薩立像」を写し取ったものという解釈を知り、興味深く感じた(鎌倉の仏像と「いわき」の仏画が直接的に結ばれていることが、それらの図像を通して端的につかめるものなのだ…と)

この講座の前、称名寺の境内で阿字ヶ池を眺めながら、梅雨の合間の柔らかな陽ざしを楽しんだ。
六月の称名寺の森からはウグイスにまじりキビタキに似た?囀りも響いてくる。白い蝶も草むらを飛びまわっている(この世界は”浄土”の在り方の一つかもしれなかった)

六月も半ば…。
とても短い一つの季節が過ぎると、白い光と蝉の世界が待っているのか…。

いつか空から眺められたら…。

ガウディ没後100年にあたるという2026年6月10日、朝日紙夕刊1面は、サグラダ・ファミリア教会の写真と記事で埋まっていた。
そこには、教会の尖塔を背景にして帽子の似合う人が写っている(かつてTVのドキュメンタリー番組で見知った外尾悦郎さんという彫刻家だった)
インタビュー記事を読み、外尾氏がガウディについて語るなかで、鍵括弧の形で示された「自分1人だけが満たされても、人は幸せにはならない」という言葉が、どこか宮沢賢治の言葉に似ているように感じた。
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「…おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
  もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
  われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
  近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
  世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない…」
 「…曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
  そこには芸術も宗教もあった
  いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
  宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
  芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
  いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
  われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
  いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
  芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
  ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
  都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
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  (『農民芸術概論綱要』(1926年)の「序論」と「農民芸術の興隆」から抜粋・引用)

1926年…ガウディが没したちょうどその年に、宮沢賢治(私の祖父は宮沢賢治と同年代なのだった)がこの言葉を掲げたのか、と思う。
今から100年前(たった100年前)、当時の時代の空気はバルセロナにも花巻にも在ったのか、と思う。
そして、2026年現在の時代の空気とは? さらに、今の私とは?と思う。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

改めて、ガウディや宮沢賢治の時代が遠くなったこと、私が生きた時代(そして私の記憶)も遠くなったこと、そして私はついに何ごともなしえなかったな…と改めて思った記事だった。

 

~有機生命体(?)としてのサグラダ・ファミリア~

1987年12月当時のサグラダ・ファミリア教会で①

1987年12月当時のサグラダ・ファミリア教会で②:

この写真は「生誕の塔(ファサード)」の「慈悲の門」を撮ったものらしい。
ただ、この写真の楽器を奏でる彫刻群は、上段の左・右(ファゴット?・ハープ)は完成しているけれど下段は、リュート(?)を持つ左の1像だけの状態にとどまっている(現在は左右2像ずつ設置され、完成しているようだ)
ガウディの作品には、グエル公園のような生命体としてのイメージがあるけれど、サグラダ・ファミリア教会の建築期間の膨大な長さは、こうした建築過程をも有機的な生命体のように感じさせる。

1987年12月当時のサグラダ・ファミリア教会で③

1987年12月のサグラダ・ファミリア教会で④

40年ほど前、私はサグラダ・ファミリア教会について、それほどの興味を持てずに見学していたらしい(家族から「エレヴェーターで昇って撮影した写真…」と見せてもらったけれど、私にはそうした記憶が全く残っていなかった。本当にガッカリさせられる脳味噌だ)
そして、家族が当時のネガフィルムをデータ化した一連の写真を見ても、今回の記事を読んでも、私には現在のサグラダ・ファミリア教会の全体像をイメージできなかった。

いつか、サグラダ・ファミリア教会の完成した姿を、この世界から旅立つ途中、空から眺められたいいな…そう願うしかない。

自画像の内側にあるもの。

 

梅雨入りした7日、茅ヶ崎市美術館に出かけた。
美術展は久しぶりだった。そして、牧野邦夫という画家の名は、今回初めて知った。
休日に近くの美術館へ…しかし、のんきな気分はすぐに消し飛んだ。彼の濃密な作品群は、それに見合った集中力を求め続ける。三つの展示室を巡ったあと、一日分の視力を使い果たした気がした。
(ボスやブリューゲルの世界に、デューラー風の自画像が嵌め込まれていたら、私たちは食い入るように見つめないではいられない。一方、その作品の風合いにレンブラントの世界に通じるもの…光と闇の混じり合ったやわらかな空気感…は感じられなかった。ことに彼が描く裸体は引き締まって曖昧さがなく、人物を浮き立たせる光は、異世界の闇をむりやり封じ込めているような印象を受けた。ただ、「食卓にいる姉の肖像」という作品は、レンブラントにとってのサスキアのように描かれていると思った。

多く描かれた自画像のなかでとくに目立つのは”手”の表現だった。またデューラーの自画像のような左眼(鏡像を描いたのであれば)の瞳の位置も気になった。

チケットや絵葉書など

美術館の入り口で 

美術館へのアプローチで

クチナシの花とビワの実

 

【参考】
~昨春の平塚市美術館から~
中村正義「ピエロ」(1975年)
 
中村正義の自画像の作品群:
「ピエロ」と異なり、ほとんど”仮面”としての自画像ばかりだ。なぜポップな”仮面”で自己を表現するのだろう(”仮面”で充分ではないですか?という意味合いなのだろうか)


カラヴァッジョ「ナルキッソス」のクリアファイル:

手持ちの絵葉書を探してもカラヴァッジョの作品はなく、クリアファイルだけが残っていた。
この「ナルキッソス」の画中の水面には、覗き込む美しい少年とは別の顔が映し出されているように見える。そこにカラヴァッジョの自己愛と自己凝視の両面が表現されているのかもしれない。

それにしても、牧野邦夫はなぜ自画像を描き続けたのだろう?

全ての展示を観終わった時、画家ののめり込むような芸術的な毒気にあてられて疲れ果てたからか、牧野邦夫の表現意欲は対象の”表層”に深く食い込んだあと、対象の”内面”を素通りし…そこには関心が無いように思われた…、彼の偏愛する世界を念入りに作り込むことだけに費やされているように感じたのだった。
そして今、改めてネット上で彼の自画像作品1955年・1977年・1986年の「武装する自画像」)を見直しながら、私には感じとれなかったものがあったのかもしれないと思い始めている。もう一度、牧野邦夫の世界に出会えたら、彼の自画像の内側に何か描かれているのかどうか、落ち着いた心と眼で覗き込んでみたい。