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私の第三十四夜をつづります。

2月の雪

 

2月になって二度の雪降りに出会った。旅先の銀山温泉で、そして投票日前の地元で。

湘南の温かな気候のもとで暮らしている限り、記憶に残る雪は珍しい(私の場合、「三八豪雪」で校庭の土手に”カマクラ”を作って遊んだこと、そして病に倒れた母と暮らすようになってから何回か家周りの雪かきをしたこと、その後は2014年2月8日の大雪で一時的に停電したことなど)

2月9日の朝…じきに雪は消えようとしている。
今回の衆議院議員選挙の結果を忘れないためにも、また新たな希望を持ち続けるためにも、今回の2月の大雪の思い出を残しておこうと思う。

 

銀山温泉の雪:2026年2月2~3日】


宿の窓辺のつららと雪明り(?)のステンドグラス

 

屋根の雪下ろし作業と雪に埋もれる銀山川・正楽寺


銀山温泉の夜と朝

 

 

【平塚の雪:2026年2月8日】
雪のなかの人魚姫

 

根丸島遺跡展(はだの歴史博物館)で。

 

7日早朝、家を出た時にはまだ雪は降っていなかった。平塚からバスで秦野をめざし、乗り継いで桜土手古墳公園へと向かった。その途中で雪が降りはじめた。

途中で、バスがなぜか渋沢駅に向かっていることに気づき、慌てて下車した(確かめて乗ったはずが、乗るバスを間違えていた)
雪の降り方は強まっていた。傘をさす手がかじかむ。はだの博物館の講座が始まるまであと20分弱…雪の中をあたふたと博物館まで走り続けた。

夢中で走った甲斐があって、何とか時間ギリギリで博物館にたどり着く(すでに大勢の人々が田尾誠敏氏による「古代の根丸島遺跡」の講座を待っていた)

暖かい会場で講座が始まった。
根丸島遺跡…秦野市にある古代の集落遺跡であること以外は何も知識が無かった。講座のなかで聴くこと全てが興味深く感じられた。

以下、配布資料を読み返しつつ、聴講した内容をまとめてみた。
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*702軒(調査範囲25000㎡)の竪穴建物、掘立柱建物は8棟のみ
(削平されたり、掘り込みの浅い竪穴建物や、掘り込みを持たない平地式建物が存在した可能性も)
弥生時代中期後半~平安時代の集落跡
古墳時代中期前半(5c前半)の竪穴建物がゼロで、集落に断絶があること
*古代の竪穴建物【カマドを持つ方形の竪穴建物+古墳時代前期末(4c末)・中期(5c)】の時期別割合の推移から、
 〇根丸島遺跡が、古墳時代後期後半~平安時代前期7c:45軒、8c:29軒、9c:40軒 に盛期を迎えること 
 〇盛期(7c~9c)の竪穴建物軒数【最大でも182軒=7~9c(114軒)+時期不明(68軒)】から、同時期に存在した竪穴建物は15~12軒ほど(耐用年数25年で15軒程度、20年で12軒程度)と推定され、大規模集落とは言えないこと

*根丸島遺跡は、律令制下の大住郡櫛崎郷に含まれる可能性があること(ハケ整形・ヘラ削り整形の長胴甕が拮抗して出土する根丸島遺跡の様相は、師長国造〔→余綾郡〕と相武国造〔→大住郡〕の支配領域の境界域であることを示していること)

*5c後半の根丸島遺跡では須恵器の出土が多いこと、また祭祀関連遺物の滑石製模造品が出土すること(同時期の平塚市沢狭遺跡と類似すること)

*”S字甕の成れの果て”と言われる”宇田型甕”三重県・愛知県など、伊勢湾沿岸で生まれた台付甕)が出土していること(根丸島遺跡では、県内3例のうちの2例が出土)

*羽口や皇朝十二銭などが出土していること皇朝十二銭は地鎮などのため、住居跡から出土することがあること)
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7c~9cの根丸島遺跡(竪穴建物総数702軒のうち最大で182軒)で同時期存在の竪穴建物軒数【耐用年数25年で15軒程度、20年で12軒程度】は、7c後半~10c後半の相模国府域(竪穴建物総数898軒)の場合の同時期存在の竪穴建物軒数【耐用年数25年で1775軒、20年で1420軒、15年で1065軒】(「発掘から見た相模国府」明石新 『国史学』第156号 1995年)に比べ…単純に比較はできないとしても…、かなり少ないのは確かなようだ秦野市民の方にはちょっと残念にな結果かもしれない…と思ったりした)
また、相模国府域の盛期が8世紀前半と9c後半であるのに対し(7c後半:21軒、8c前半:142軒、8c後半:72軒、9c前半:79軒、9c後半:175軒、10c前半:117軒、時期不明185軒)、根丸島遺跡の盛期は7c~9cであること(7c:45軒、8c:29軒、9c:40軒、時期不明:68軒)…その盛期のずれにも興味をもった(根丸島遺跡で8cに竪穴建物軒数が落ち込むのは、相模国府造営のために駆り出されたから?といった妄想も浮かんだりした)

また、会場に展示されていた「宇田型甕」の色や質感や調整痕が物珍しく、印象に残った。

講座を聴き、こうした珍しい土器を間近に見たことも嬉しかった。
博物館から秦野駅に向かう帰りのバスが無かったので、渋沢駅まで雪景色を楽しみながら歩いた。寒かったけれど、”雪に唄えば”の気分だった。
(帰宅後、『平塚市史』や『平塚市考古資料50選』を見て、御所ヶ谷遺跡の円形周溝墓から、S字口縁の三連小型台付甕〔古墳時代前期 4c / 口径7.9 ㎝・現存高6.3 ㎝〕などが出土していることを確かめた。

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「三連小型台付甕は円形周溝墓の南西部と南東部の2 か所から破片で出土し接合しました。三連小型台付甕の口辺断面はS字状で、胴体部は算盤玉状、脚台部はハの字形に開き下半部は欠けていました。円形周溝墓に分割埋納されていたことは、この珍しい土器と被葬者との間に何か深い関係を想像させてくれます。被葬者に対する最高の敬意を表す意味において、この人物の葬送に副えた土器と考えられ、副葬品としての土器には、しばしばこれを割って埋納する例が少なくありません。」
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hirahaku.jp/web_yomimono/kouko/ko50-24.html『平塚の考古資料50選』から抜粋・引用

 

~企画展「根丸島遺跡」の資料から~

古墳時代中期の壺(左)とS字口縁の”宇田型の甕”(右)

S字口縁の”宇田型の甕”(329号竪穴建物 古墳時代中期 根丸島遺跡)


羽口、皇朝十二銭「神功開宝」、軽石製品

 

有鈎銅釧(249号竪穴建物 弥生時代後期~古墳時代後期 根丸島遺跡)

 

根丸島遺跡全体図

十二夜の月

 

昨夕、買い物帰りの交差点で信号が赤に変わった。

寒風に身構えながら空を見上げると、そこに何とも美しい月があった。

『十三夜?』と思った。

家までずっと、白く光り輝く月を見ながら歩いた。何と美しいのだろう…。

家に着いてカメラを持って再び外へ出た。

2026年1月30日の月:
十二夜の 白銀無垢の 光かな…今宵十三夜の月はもっと美しいだろうか?



 

冬の上野で。

23日、朝早く、家を出た。
その日は、東京で蝶の調査データの入力作業を教えてもらう約束があった。
(受験生のような不安な気持ちで訪ねたけれど、親切で丁寧な指導のおかげで無事に入力方法を覚えることができた。事務所を出て青空を仰いだ時は、本当に晴れ晴れとした気持ちになった。)

その夜にはコンサートを聴く予定があったので、それまでの長い時間を上野で過ごすことにした。

上野は冬晴れだった。明るい陽射しは春めき、長い(長過ぎる?)散歩の時間を冷たい風から守ってくれた。そして、いろいろなことにゆっくり思い巡らしながら歩き続けた(これまで何度も上野を訪れているのに、知らないところばかりだった。古墳があったり、大仏様のお顔が残っていたり、神社やお寺が点在していたり…その広さや地形、成り立ちなどを初めて実感した)

また、不忍池のほとりを歩いていた時、ふと漱石のことを思い出したりもした(帰ってから、『こゝろ』を確かめてみると、「私」と「K」が歩いた季節も冬のようだった。私が歩き回った1月23日の上野はどこまでも明るく、陽が落ちるまで、どこにも寂しく暗い影は見当たらなかったけれど)

家族と待ち合わせて聴いた久しぶりのコンサートは楽しかった(指揮も演奏も若々しく、心躍った。また、指揮者だけではなく、コンサートマスターの身体の動きからも目が離せなかった)

すべての予定を終えて、無事に帰りの電車に乗ると、いちどきに幸福感と疲労(言葉通りに”心地よい疲労感”)に満たされたのだった。

 

東京文化会館

 

待ち遠しい”光の春”

 

無題

 

2026年1月。
私にとって、現在の首相ほど、いぶかしく思える政治家はこれまでいなかった。
『なぜあなたはこの国の首相となり得たのか』『なぜ今首相として私たちに語っているのか』という疑問が頭を離れない。

なぜそう思うのだろう?
今、首相として語るあなたを見るたびに、総務大臣時代の文書について、あなたが使った「捏造」という凶々しい言葉を思い出すからだろうか?

報道画面であなたを見るたびに『あなたは本当にこの国の首相であるのか』と、ただただ虚しい思いで問いかける。

そんな2026年1月。
スミレが元気に咲いている。

 

ベランダのスミレ:
近所の道端のアスファルトから咲く”ド根性スミレ”の種を家に持ち帰り、植木鉢に蒔いたもの。ベランダのほかの白いスミレたちとは段違いにたくましい(白スミレたちはこの時期、まだ冬眠している)



写真メモ:行く年~来る年③

年末年始の旅をふり返っている間に、お正月も20日になってしまった。”大寒”の今日、平塚では、春の陽ざしと冬の寒さとがせめぎあっている。

2025年の大晦日、東寺に続いて訪れた観智院の門前で見上げた月は、十三夜に近い姿をしていた。そして平塚に戻った3日の夜には満月となって輝いていた。

今月末には再び十三夜の月を見上げることだろう…こうして2026年も、時は過ぎてゆくのだなぁ…。

 

観智院の門の正月飾りと十三夜の月



法隆寺東院への道の築地塀       ∇三十三間堂の「太閤塀」

前回、法隆寺を訪れた時も、五重塔の屋根先や築地塀の朽ちた姿を眼にした。朽ちてゆく風情を感じる一方で、やはり気になる姿だ(東寺の築地塀三十三間堂築地塀など、今回の旅でも、築地塀を見かけると、なぜかしげしげと見てしまう)

 


北白川の大きな「子安観世音」今出川通志賀越道の合流点で)
とても大きなお地蔵様に呼び留められたように思い、写真に残した(像高2m 花崗岩。彫り直される前はどのようなお顔をしていたのだろう?

 


路傍の菊:
数十年ぶりに”哲学の道”をたどった。すっかり整備された川筋に咲いていた紫色の菊。
その色を眼にして、『そうだ、ここは”都”なのだった』と思った。

 

写真メモ:行く年~来る年②【元旦の妙心寺法堂から松尾山へ】

 

2026年元旦は、朝から嵯峨野方面に出かけた。
京都駅の宿を8時に出て、花園駅に向かい、妙心寺法堂で新年の法要を見聞した。

お坊様(往年の俳優・佐藤慶を思い出させるようなお顔だった)の声は、時に強く時に密やかに、波打つように発せられた(天井に棲む雲龍を覚醒させるがごとく堂内に響き渡った)。その聴き慣れない強弱のリズムは音楽のように心地よかった。
お話の内容は理解できなかったけれど(ところどころで私が聞き取れたのは「…御徳を施し給わさんことを…」「…天空地をめぐる…」「…仏法有りやまた無きや…」「しかりといえども…すなわち…」などのわずかな言葉だけだった)、ともかくも頭上の雲龍に見守られながら居ずまいを正し、ありがたい気持ちで新年を迎えたのだった。

元旦の妙心寺法堂     

法要が終わり法堂が閉じられたあと、松尾山に登るために嵯峨嵐山駅に向かった。
そして冬景色の渡月橋を渡った(橋から見渡す桂川の流れも、中洲に休む水鳥たちも、すべて寒々しい色合いのなかにあった)

 

阪急嵐山線・嵐山駅の近くで、「苔寺へのぬけ道」と書かれた案内板を頼りにハイキングコースに入ってゆく(この案内板が無ければ、必ずや通り過ぎてしまうような極細い”ぬけ道”だ。意外にも、そこには下山したばかりの方やこれから登ろうとする方がいた。私たちだけではなかったのだ)

このハイキングコースは”京都一周トレイル”の一部になっていることも知った。勝手知らぬ土地で元旦から山道を歩くことに少し不安もあったので、心強く感じた(入口で下山客から「熊は出ないから大丈夫ですよ」と笑顔で教えてもらったのに、最後まで熊鈴を外さずに歩き、家族から顰蹙を買った)

実際、行く先々で道標に出会い、トレイルする方々に出会った。
標高250m余の松尾山をめざし、緊張しながら歩く私たちの横を、トレイルランナーたちが軽やかな足取りで走り抜けてゆく(若いのか…タフなのか…若くてタフなのか…)

下山途中の展望台でキャンプ道具を背負った二人に出会った。伏見桃山から走りはじめ、3日間で京都を一周するのだと語っていた(早い人ならば一日なのだとも)。二人は、展望台から伏見桃山の位置を確かめたあと、ゴールをめざして元気よく走り降りて行った(その後ろ姿を見送りながら、私たちは2026年の今、もはや”弱法師”・”影法師”として生きているのだということをしみじみ実感したのだった)

 

穏やかな山道

松尾山手前の展望台から:
左/北山(ポコンとコブのある愛宕山の姿)            右/東山(左手前に桂川渡月橋、右奥に比叡山

松尾山山頂に近い展望台には先客が一休みしていた。
余りに良い眺めなので、その先客と話が弾んだ。
私が「比叡山はどのあたりですか?」と尋ねたのをきっかけに、これまで名前も形も知らなかった愛宕山の伝説…その昔、愛宕山比叡山と高さを競って喧嘩をして、比叡山に叩かれ頭にコブができた。今の愛宕山の頂上がコブの形になったのはそのため…を教えてもらったりした(ほかにも、五山の送り火で「⛩」の鳥居形になる山も教えてもらった)。
また、「どちらから?」と聞かれて「神奈川県から…」と答えると、「比叡山がどの山なのか分からないから、たぶん京都の人じゃないんだろうなと思いましたよ」と何だか可笑しそうだった。こんな会話をかわし、私も京都に暮らす人々に親しみを感じたのだった。

 

松尾山の尾根道に残る古墳跡?:
松尾山登頂(!)のあと、尾根道を歩いていると、突如大きな石群が現れた。興味を惹かれ、近寄ると石組み(?)の下に地下空間が見えた(巨岩の下に穴があるのは変かも?)。そして大きな石には平らな面もあった。
その位置は松尾大社の西裏にあたり、樹々がなければ眺望の効く場所のようにも思われたので、『古墳の石室の可能性も?』と期待をこめて、写真に残した。

∇ハイキング道の巨石群

この場所には遺跡・史蹟の表示はなかったけれど、下山した苔寺近くに案内板があった。図中の「●松尾山古墳群45基」に含まれている可能性が出てきたので、予期せぬ出会いにちょっと嬉しくなった。

今回、この巨石群の位置を地図に落としながらネット上で調べてみると、やはり”松尾山古墳群”に該当するらしい(たぶん…)と分かった「松尾山の群衆墳―松尾十三塚古墳群の紹介も含めてー」丸川義宏 1998年『京都市埋蔵文化財研究所研究紀要』) 

私が覗いた大きな石群は、その論考のなかの「松尾山F号墳松尾神社西方1号墳)」のようだ(論考では、横穴式石室の円墳とされている。そして、この「松尾山F号墳」は『京都市遺跡地図』では「965松尾山古墳群」の「B1号墳」に該当するようだ。ややこしい…)

なお、この松尾山F号墳(965松尾山古墳群:B1号墳)は下掲の地図中で、コース上に連なる三つののうち、一番上(北)が該当すると思う(たぶん…)

 

≪個人的map:松尾山ハイキングコースと古墳群≫
––––––:今回歩いたコース :展望台 ▲:松尾山 :松尾山古墳群の一部

こうして、2026年元旦のハイキングは無事に終わった。楽しかった。