ガウディ没後100年にあたるという2026年6月10日、朝日紙夕刊1面は、サグラダ・ファミリア教会の写真と記事で埋まっていた。
そこには、教会の尖塔を背景にして帽子の似合う人が写っている(かつてTVのドキュメンタリー番組で見知った外尾悦郎さんという彫刻家だった)。
インタビュー記事を読み、外尾氏がガウディについて語るなかで、鍵括弧の形で示された「自分1人だけが満たされても、人は幸せにはならない」という言葉が、どこか宮沢賢治の言葉に似ているように感じた。
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「…おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない…」
「…曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」
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(『農民芸術概論綱要』(1926年)の「序論」と「農民芸術の興隆」から抜粋・引用)
1926年…ガウディが没したちょうどその年に、宮沢賢治(私の祖父は宮沢賢治と同年代なのだった)がこの言葉を掲げたのか、と思う。
今から100年前(たった100年前)、当時の時代の空気はバルセロナにも花巻にも在ったのか、と思う。
そして、2026年現在の時代の空気とは? さらに、今の私とは?と思う。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
改めて、ガウディや宮沢賢治の時代が遠くなったこと、私が生きた時代(そして私の記憶)も遠くなったこと、そして私はついに何ごともなしえなかったな…と改めて思った記事だった。
~有機生命体(?)としてのサグラダ・ファミリア~
1987年12月当時のサグラダ・ファミリア教会で①
1987年12月当時のサグラダ・ファミリア教会で②:

この写真は「生誕の塔(ファサード)」の「慈悲の門」を撮ったものらしい。
ただ、この写真の楽器を奏でる彫刻群は、上段の左・右(ファゴット?・ハープ)は完成しているけれど、下段は、リュート(?)を持つ左の1像だけの状態にとどまっている(現在は左右2像ずつ設置され、完成しているようだ)。
ガウディの作品には、グエル公園のような生命体としてのイメージがあるけれど、サグラダ・ファミリア教会の建築期間の膨大な長さは、こうした建築過程をも有機的な生命体のように感じさせる。
1987年12月当時のサグラダ・ファミリア教会で③
1987年12月のサグラダ・ファミリア教会で④
40年ほど前、私はサグラダ・ファミリア教会について、それほどの興味を持てずに見学していたらしい(家族から「エレヴェーターで昇って撮影した写真…」と見せてもらったけれど、私にはそうした記憶が全く残っていなかった。本当にガッカリさせられる脳味噌だ)。
そして、家族が当時のネガフィルムをデータ化した一連の写真を見ても、今回の記事を読んでも、私には現在のサグラダ・ファミリア教会の全体像をイメージできなかった。
いつか、サグラダ・ファミリア教会の完成した姿を、この世界から旅立つ途中、空から眺められたいいな…そう願うしかない。