以前から、『平塚市地名誌事典』の地図を見るたびに、大字「四之宮」や小字の境界線が気になっていた。
*「推定相模国庁」の南に位置する「大会寺」を扇のかなめとして、北東・南西側に「ノ」の字形に翼を伸ばすような形であること(相模川の浸食による地形的制約?)
*大字「四之宮」・「真土」の南西端に位置する小字「梶谷原」や「二十二之域」~「二十三之域」の南西境界線が、「推定古代東海道」と重なる(並行する)こと
今回、「四之宮/梶谷原」・「真土/二十二之域~二十三之域」の南西境界線のほかにも、字の境界や旧地形図の道路と重なる、あるいは並行する道路状・溝状遺構があるのかどうか、確かめてみることにした。
(そもそも字の境界は、道路や自然地形に沿って区分されることが多いはずで、そうした字の境界と重なる道が140年以上前の旧地形図上に存在したとしても、それが奈良・平安時代にまで遡る可能性は高くないと思う。ただ少なくとも、字の境界や旧地形図上の道と重なるような古代の道状・溝状遺構が検出された地点を洗い出すことは無駄にはならないと思ったのだ。残念ながら、すべて確認することはできなかったけれど。)
≪個人的map:相模国府域周辺の道路状・溝状遺構、旧地形図上の道路、字の境界線≫
赤点線:旧地形図(明治15年測量・24年修正の迅速図)の縣道・里道・村道・騎小径などからトレース
黒点線:推定古代東海道ルート
黒太線:道路状遺構 茶太線:溝状遺構
黄緑の太網線:消失した古墳(伝承)群の範囲 灰緑色の円:旧真土村「字 三野」の範囲 

結果、上掲の地図上で、赤の計3個の❶と白の②の地点を結ぶラインが国府域を東西に、また、赤の計3個の❷を結ぶラインが、国府域を南北(北東~南西)に通り抜ける形になった(どちらのラインも、失われた道を含むので、実際に足でたどることはむずかしい)。
❶「四之宮/梶谷原」・「真土/二十二之域~二十三之域」の南西境界線:
構之内遺跡第3地点~東中原E遺跡第4地点の道路状遺構から推定される”考古学的古代東海道”ラインと重なる(並行する)
❷ 大字「四之宮」・「八幡」の境界線(北東~南西の斜向ライン):
かつて「大道/役道」と呼ばれた古道の一部と重なり(「大道/役道」は、平塚八幡宮付近から北上する「八王子道/厚木道」と [フタツヤ] 付近で合流する)、花水川手前の❷の位置では「平塚城跡」第2地点「H1道」の斜向ライン(N72°E)と重なる
なお、溝状遺構では、白の①・②・③・④の4地点が浮かび上がった。
① 大字「真土」・「四之宮」の境界線(東西ライン):
高林寺遺跡第3地区のSD01=高林寺遺跡第1地区-2のSD03=諏訪前遺跡第1地区-3のSD06を結ぶ東西ラインに沿う
② 大字「四之宮」・「八幡」の境界線(東西ライン):
高林寺遺跡第16地点のSD03・07、SD04・05の東西ラインに並行する
(すでに検出された「推定古代東海道」の東側延長推定ラインになる可能性は?)
③ 大字「四之宮」の境界線と「粕屋道」(南北ライン):
神明久保遺跡第5地区のSD01・02の南北ラインと並行する
④ ”厚木道”(”中原街道”の一部として、谷川右岸〔谷川北側]沿いに走り、小字名「厚木道」、遺跡名「厚木道遺跡」に名を残す)の斜向ルート(北東~南西ライン):
東中原G遺跡第1地点の大型溝SD01の北東~南西ラインと重なる
【妄想】この大型溝SD01(8c初頭~8c中葉)は、その機能も、新町遺跡第3地点の大型溝SD(8c初頭or中葉?~9c中葉)との関連性もまだ解明されていない。なので大いに妄想が広がる。その突飛な妄想をメモすると次の通りとなる。
*新町遺跡第3地点の大型溝とともに平安時代から道路として使われた可能性は?
*道路として長期に渡って機能し続けて”厚木道(中原街道)”の一部となった可能性は?
*西側延長ルートが中原街道ラインから南に離れ、南西側に位置する上宿遺跡(中原上宿遺跡Ⅱ区)の道路状遺構SF01(9c代か)とつながる可能性は?
*東側に位置する構之内遺跡の後期道路SD20(9c中葉には機能~11c初まで存続か)とつながる可能性は?
以上のように、妄想の裏付けになればと≪個人的map≫をまとめてはみたけれど、結局、いつもどおり妄想のままに終わった。
『やっぱり堂々巡りか…』とがっかりしつつ、新たに国府域の古墳・塚の位置、律令期以前の時代の国府域の様相についても気になりはじめた。
次は、相模国府域の古墳と塚の所在地についても、簡単にまとめておこうと思う。
【追記】
地図中で示した灰緑色の円(旧真土村「字 三野」の範囲)について:
相模国府について学びはじめ、平塚市内の東海道駅路のルートや「箕輪駅(家)」の所在地に関心を持ち、旧地形図を眺めていた時期があった。
当時、"「箕輪」とは水が曲がったところ”といったことから、花水川~渋田川が曲流する「字 南原~字 真土」にかけての一帯をイメージしていたし、『神奈川の古代道』でも中原上宿遺跡付近(「字 南原~字 真土」より内側の「字 中原」)に「駅家」「箕輪駅」が置かれているので、その視点で旧地形図を眺めるようになった。
そして今回、旧地形図上の「野 三 字」(右横書き)文字を眼にして、当時考えていたことを思い出し、敢えて「字 三野」の範囲を示してみた。
当時考えていた(妄想していた)ことは次のようなものだ。
○「箕輪 みのわ」の”みの”が「三野」の”みの”の読み方に通じるが、「箕輪」が「三野 みの」の表記・読み方に変化していった可能性は?
(『和名類聚抄 郷名考證 増丁版』に”讃岐国三野郡”・”阿波国三好郡三野”の例が載り、どちらの「三野」も”みの”と読むようだ。ただし、明治期の「字 三野」の読み方は不明。【註】『和名類聚抄 郷名考證 増丁版』(池邊 彌 吉川弘文館 1966年)
○『平塚市地名誌事典』では、真土の小字名「三谷大原」「三谷山際」、馬入の小字名「三谷前」「三谷後」のいずれも"さんや"と読むので、明治期以降、"三野 さんや”が”三谷 さんや”に変化したことは確かなようだ。
(ちなみに『平塚市地名誌事典』では”「三谷」は「三屋」で、開拓家屋が三軒だったことに由来し”と解説されている。)
以上、当時の不毛な妄想をまとめてみた(「三野」が「箕輪」に遡る可能性は無いとしても、「三谷」が明治期の地図には「三野」と表記されていたことを示しておきたい)。
ハマダイコン





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