enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

神奈川県の考古学講座『かながわの律令世界』を聴いて。

 

15日、横浜で考古学講座『かながわの律令世界』を聴いた。
会場は満席で、盛りだくさんのカラフルなスライドを次々と見ながら、律令前夜の古墳時代から、国府・郡家・集落遺跡の概容へと、県内の主要遺跡を駆け巡った2時間だった。

休憩時間には湘南新道関連遺跡の出土遺物(軒丸瓦、墨書土器)を見ることもできて嬉しかった(展示されていた「大(住)」墨書土器…春に開催された「令和5年度 かながわの遺跡展 華ひらく律令の世界」では展示されていなかった資料?…には、まだ墨文字が良く残っていた。)

 

平塚市内や伊勢原厚木市出土の緑釉陶器の分布・流通の全体像を知りたい私は、講師の立原遼平氏が施釉陶器の研究をされていることを知り、頼もしく感じた。若い研究者の方々によって、今後の研究がさらに深まっていってほしいと思う。

メモ:「鉢形」・「砲弾形」の資料

今回、参照している論考及びその図表(論考「付編 竈構築に使用された筒形・鉢形を呈する土製品について」及び図表「筒形・鉢形土製品の分類と変遷」:川又隆央 『新町遺跡第3地点B地区発掘調査報告書』2009年)で図化・掲載されていない資料にはどのようなものがあるのだろうと思い、以下の通り、メモをまとめてみた。
(40年前の報告書『四之宮下郷』で、小島弘義氏が「第3期の9甕の特殊形態5類」とし、「砲弾型」と記した土器について、また「第4期の10甕2b類」の「小型鉢」とした土器について、とくに興味を感じていた。今回、「平塚城跡」と相模国府関連遺跡とをつないで考えるきっかけの一つになった「筒形・鉢形土製品」について、自分なりに整理しておきたかった。)
なお、川又隆央氏の論考の図表「筒形・鉢形土製品の分類と変遷」に採録された資料の遺跡は次の通り。
〔筒形土製品〕
*諏訪前A遺跡第4地点
*根岸B遺跡
*中里E遺跡
*諏訪前遺跡(現・高林寺1‐1遺跡)
*厚木道遺跡第3地点
*諏訪町A遺跡
*新町遺跡第3地点B地区
鉢形土製品〕
*新町遺跡第3地点B地区
*四之宮下郷(現・六ノ域遺跡第1地点)
*構之内遺跡
_____________________________

【メモ:「鉢形」・「砲弾形」などの筒形等土製品】

少ない事例ではあるけれど、相模国府域でも筒形土製品が使われ、8世紀代は竈の袖の芯、9~10世紀以降はほとんど支脚になっている。
川又氏の論考・図表では、9世紀代に中里E遺跡・新町遺跡・厚木道遺跡・諏訪町A遺跡などの国府域外でまとまって出現するのはなぜだろう。

本宿B遺跡では”寸胴形”の甑などが、竈の支脚に使われている。
筒形等土製品のなかでも、本来の使用目的ではなく転用された甕や甑がある一方で、初めから竈の支脚などの専用品として制作されたものとがあるようだ。
(諏訪前A遺跡第4地点の甕について、小島弘義氏は報告書〔『平塚市文化財調査報告書第6集』1989年〕のなかで
支脚の小型甕の大半は実用品として、使用したのではなく、初めから竈の構造体の一部として制作されたものと考えられる
と考察されている。天井部・袖の芯・支脚では、それぞれ形は異なるように思うのだけれど、なぜ甕の形なのか?)

【鉢 形
〈左から〉
六ノ域遺跡第1地点(SI07)
神明久保遺跡第2地点(SI15)
構之内遺跡第1‐A地点(SI06)
構之内遺跡第1‐A地点(SB12)

これらの小型鉢は、川又氏による「筒形・鉢形土製品の分類と変遷」では10世紀半ばに位置づけられる。
新町遺跡第3地点B地区(9世紀後半・10世紀前半)の鉢形土製品より小型化している。 
後掲の鉢形土製品(中里E遺跡第3地点)はさらに一回り小さくなっているが、別の系譜なのだろうか?
なお、川又氏の論考・図表に採録されていない神明久保遺跡第2地点の小型鉢(四之宮下郷11~12期)の形は、10世紀前半の資料(新町遺跡第3地点B地区)に近いように見える。

<参考:中里E遺跡第3地点の鉢形土製品>
14(2A住居)


六ノ域遺跡第1地点(SI07)の【鉢形】より一回り小さく、底部も薄い?

【砲弾形】
<左から>
六ノ域遺跡第1地点(SI06)
六ノ域遺跡第4地点(SI65)
神明久保遺跡第2地点(SI12)
高林寺遺跡第1‐1地点(SI06)


相模国府中枢域出土のこれらの資料は、いずれも器高30㎝以上で細長い。
上図の左端が、小島弘義氏が報告書『四之宮下郷』(1984年)で”第3期9甕の特殊形態5類”と分類した「砲弾型」の土器で、「口径は10㎝前後と15㎝前後の二つのタイプがある」としている。
続けて『四之宮下郷』には
これと同種のものは『大野記』(1961 臼井弘)のP76の写真に八幡出土の土器として掲載されている
と記
されている(その『大野記』を見てみたいが見つからない…)。
特種形態のこれらの土器は、専用に制作されたのだろうか? 
なぜ二つのタイプになったのだろうか?

<参考:中里E遺跡第3地点の筒形土製品>
1・7・8       (3A住居)
2・3・4・9(5A住居)
5                      (1号井戸)
 6                       (7号住居) 

6・8・9の甕は【砲弾形】に近いように思う。
これらが出土した「中里E遺跡第3地点」と後掲の「平塚城跡第2地点」とは、道路を隔て南・北で接している。国府域の南西部でこうした土器がまとまって出るのはなぜだろう?

<参考:平塚城跡第2地点の円筒形土器>
29(H10号住居址) 高林寺遺跡第1‐1地点(SI06)の【砲弾形】に似た形?
30(H10号住居址)   高林寺遺跡第1‐1地点(SI06)の【砲弾形】に似た形?
31(H10号住居址)   神明久保遺跡第2地点(SI12)の【砲弾形】に似た形?
17(H39号住居址) 六ノ域遺跡第4地点(SI65)の【砲弾形】に似た形?


(【註】以上の図版は、各遺跡の報告書・『平塚市史』掲載の図版を改変して転載しました。)

 

 

メモ:「筒形等土製品」出土の意味は?

【訂正】当記事は当初、タイトル・本文・地図ともに「円筒形土器」との名称を用いた。しかし、川又氏の論考の「註2」で次の使い分けが示されているので、「筒形等土製品」の呼称に修正した。

2.筆者は「筒状を呈する」土製品を、明らかに器形が異なることにより、器高の数値が大きい(25㎝以上)を円筒形土製品、器高の数値が小さいものを筒形土製品と使い分けて呼称している。

____________________________________

 

国府域外の新町遺跡については、第3地点の大溝のほかに、小さなバケツのような珍しい変わった形の土器など(筒形等土製品)が出土することに興味を感じてきた。
(これらの土器については、川又隆央氏による「竃構築に使用された筒形・鉢形を呈する土製品について」〔『神奈川県平塚市新町遺跡第3地点B地区発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会編 2007年〕の論考を読み、さらに興味が湧いた。)

今回、『平塚城跡第2地点』(玉川文化財研究所 2021)で、やはり変わった形の”土師器円筒形土器”出土例が報告されていたので、川又隆央氏の分析をもとに、≪個人的map≫を作っておくことにした。
(この”土師器円筒形土器”は、川又氏による「円筒形土製品」に該当するかどうか不明。
器形は、下郷2区=6号住居址…竈・覆土出土の土師器甕、口径14.0・器高32.0・底径7.0…に似ている。この下郷2区の土師器甕は、『四之宮下郷』で「9甕5類」の特殊形態の甕…砲弾型の土器…として分類されている。)

なお、平塚城跡第2地点から出土した「川▢」墨書土器(報告書では「川杓」と推定されている)について、「川相」の可能性もあるのでは?と思い、花水川右岸域に想定されている「川相郷」の文字を地図中に加えてみた。

また、平塚城跡第2地点の斜行する1号道路状遺構(N72°E、8c前半~10c初め、長さ約29m、修繕をくり返し利用か)に関連して、”余綾郡・大住郡を結ぶ推定斜行ルート”も載せてみた。
(『延喜式』による駅路もこのルートに重なるのではないか、また歌人相模は走湯権現参詣の際、この推定斜行ルートをたどったのではないか…平塚城跡第2地点の1号道路状遺構は10c初めには廃絶しているので、歌人相模の時代とは100年の時期的隔たりがあるが…と想像している。
なお、この推定斜行ルートは、明治期の地形図で確認できる斜行道路をもとにしている

また、平塚城跡第2地点の北東約200mの地点でも、奈良・平安時代の溝状遺構(達上ヶ丘遺跡第4地点c区)が、並行(斜行)して走っている。
(溝の傾きについては、地形の制約に伴う可能性もあるが、道については、第4・第5の砂洲・砂丘列の微高地を選びながら、自然な最短ルートをとった結果、斜行しているのではないか?と想像している。)

また、国府中枢域の主な 大型溝道路状遺構(硬化面)谷川沿いの生産地域 なども載せた。
(いつか、平塚市内の溝・道路状遺構についての集成、論考などを読むことができれば嬉しい。
さらに、大磯に国府が移転するまでの相模国府としての11c~12cの時代について、専門家による研究が一層進むことを期待している。)

 

≪個人的map:「筒形等土製品」の出土地点≫ 

■「筒形等土製品」出土地点 
生産地域
大型溝 道路状遺構(硬化面) ……推定斜行ルート

(参考資料:川又隆央氏による「竃構築に使用された筒形・鉢形を呈する土製品について」〔『神奈川県平塚市新町遺跡第3地点B地区発掘調査報告書』鎌倉遺跡調査会編 2007年〕)

 

【メモ】

◇「筒形等土製品」を出土した遺跡(竪穴住居)の年代
__________________________

      国府域〉           〈国府域外〉

  8c前半:諏訪前B遺跡        
                     8c後半:根岸B遺跡
                     9c前半:中里E遺跡   
                     9c後半:厚木道遺跡
                           新町遺跡                             
                           諏訪町A遺跡
                           平塚城跡
                           中里E遺跡
_________________________________
                          

国府域外では、古代東海道以西の厚木道遺跡・新町遺跡で、また下田川以南…大磯寄り…の諏訪町A遺跡・平塚城跡・中里E遺跡・根岸B遺跡で、「筒形等土製品」が出土する。
 国府域外の平塚城跡第2地点では、「延喜通宝」、石帯(留金具が残存)、緑釉陶器、墨書土器(「川杓」ヵ・「暦 」ヵ)、陶錘などが出土している。)

◇なお、”円筒形土製品”については、「百済から伝えられたカマド構築材-円筒形土製品-(西山克己 長野県立歴史館たより vol.94)で、
 *円筒形土製品のルーツは朝鮮半島百済馬韓圏)
 *「円筒形土製品の分布を検討することにより、東国各地へ派遣され移動した渡来人たちの足跡をたどることができる
との見解が述べられている(この記事で示された円筒形土製品は7c前半の遺跡からの出土例)

 

相模国での百済人に関連する事項
     (参考:『国司任用からみた新来渡来人と古代の日本』〔菅澤 庸子 1996年〕など)
 666年:百済人2000余人、東国に移す
 735年:相模掾・酒波人麻呂正倉院文書「相模国封戸租交易帳」)
 755年:相模大目・鬼室虫麻呂
     (東大寺薬師院文書「相模国司牒」”相模国調邸”・”平安京東市”関連)
 780年:(兼)相模介・吉田連斐太麻呂
 805年:百済王教法桓武天皇女御)、大住郡に田2町
 832年:(兼)相模介・百済王勝義
 837年:(兼)相模守・百済王勝義
 842年:(兼)相模守・百済王勝義

平塚市内の8~9c代の「筒形等土製品」出土は、西山克己の視点や、百済系渡来人による政治・経済的活動などと、どこかで関連しているのだろうか?
川又隆央氏による「竃構築に使用された筒形・鉢形を呈する土製品について」では、西山克己氏の「百済から伝えられたカマド構築材-円筒形土製品-」のような視点については言及していない。現在、これらの”珍しい変わった形の土器”の研究はどこまで進んでいるのだろう?)

作ったばかりの地図を眺めてメモをまとめながら、ようやく国府域外にも目を向けることができるようになったんだなぁ…と感じている(といって、何かが見えてきた…というわけでは全然ないのだけれど)

 

追記:以前の記事
「平塚城跡 第2地点」の調査報告を聞いて - enonaiehon (hatenadiary.jp)
と、その地図も再掲しておく。

 

相模国府域を東から西へ。

 

18日午後、考古学のサークルで、市内の四之宮から東中原まで、初夏の陽射しの中を砂丘と凹地の高低差を確かめながら歩いた。
(四之宮の湘南新道関連遺跡群〔推定相模国庁跡〕から、諏訪前A遺跡・諏訪前B遺跡、天神前遺跡・神明久保遺跡、山王B遺跡・構之内遺跡を経て、国府域外の東中原E遺跡までの行程だった。)

この日の午前中は、博物館開催の講演(『更級日記の旅-古代の交通制度を考える-』)で大胆な仮説…作者一行は「まつさと」~「もろこしが原」の区間は駅路を通らずに、孝標とは別ルートで海岸沿いを進んだ、との仮説…に耳を傾けた。
そして午後からの踏査では、配布資料を片手に、縄文時代中期の海岸線(谷川より南の下田川低地のあたりだろうか?)近くで活動した人々を想像したり、また砂丘と凹地の起伏の名残りのなかに、古代東海道や谷川(やがわ)が走っていた当時の景観を探し求めたりした。

途中、幸運にも、天神前遺跡の調査現場(天神前遺跡第7地点の西に隣接する地点か?)にも立ち寄ることとなった。
天神前遺跡は下田川低地の北に連なる高まりの上に位置し、その東端には稲荷前A遺跡(「国厨」墨書土器出土)、その西には神明久保遺跡(鍛冶工房関連の遺跡)が展開する。

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この天神前遺跡の位置付けの一つとして、次のような考察がある。
平塚での鍛冶工房の出現は、8c前半の天神前遺跡第7地点に始まり、その後、神明久保遺跡や六ノ域遺跡・坪ノ内遺跡へと展開してゆく」(『よみがえる古代東国の鉄文化~相模・武蔵の発掘調査成果から~』財団法人かながわ考古学財団 2010年)
なお、天神前遺跡・神明久保遺跡の実際のデータを表から見ると次の通り。
【鉄製品出土点数のピーク時期とその点数】
*天神前遺跡 :8c前半(40点)  ・9c後半(40点)
*神明久保遺跡:9c前半(119点)・9c後半(110点)
〔註〕データの出典が示されていないので、六ノ域遺跡・坪ノ内遺跡のデータに湘南新道関連遺跡の成果が反映されているどうか確認できず、天神前遺跡・神明久保遺跡のデータのみに注目した。)
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こうしてみると、天神前遺跡は、北部の地点で「郡厨」・「国厨」墨書土器なども出土し、国衙郡衙の密接な関係性を感じさせる遺跡ではあるけれど、今回立ち寄った調査現場を含む南部も含めて、神明久保遺跡と一体的にとらえる必要があるようだ。

国府域の西半部にあたる調査現場を過ぎる頃から、足もしだいに重くなってゆく。
ただ、市内ではじわじわと開発が進んできたとはいえ、まばらに残る畑には土師器のかけらも浮いていたりして…眼を凝らせば…、かつての表採活動をなつかしく思い出したりもした(まだまだ学び足りないし、学んでもすぐに忘れてしまうのが情けない…)

ちなみに、国府域内の時期別建物数…竪穴建物と掘立柱建物の合計数…の変化とその分析については、『検証 相模国-古代都市復元への挑戦-平塚市博物館 2010年)にまとめられている
(ピーク数をもとにした分類パターンでは、天神前遺跡は8c前半に、神明久保遺跡は9c後半にピークがあり
、このパターンは国府域全体の傾向と相似関係にある。)

また、竪穴建物・掘立柱建物のそれぞれの軒数や分布については、『論叢 古代相模-相模の古代を考える会 十周年記念論集-(相模の古代を考える会 2005年)によって、詳細に分析されている。
(興味深いのは、天神前遺跡・神明久保遺跡、山王B遺跡はしっかりとした布掘掘立柱建物数が多いことだ。鍛冶工房の存在と何か関連性があるのだろうか?)

なお、天神前遺跡で鉄鉢形須恵器仏鉢・「大佛」墨書土器、神明久保遺跡で瓦塔片(第3・7・8・9地点)・鉄鉢形須恵器仏鉢、山王B遺跡で灰釉陶器浄瓶などが出土していることも注目される。

そして、今回おさらいしたことを、相模国府域の鍛冶関連地点をテーマにして、下の地図にまとめてみた。

 

≪個人的map:相模国府域の鍛冶関連地点≫
                  【地図中の は、鍛冶関連の遺構・遺物が出た主な地点】

(『湘南新道関連遺跡Ⅲ』〔財団法人かながわ考古学財団 2007〕の「鍛冶関連遺物集成表」で出土遺構数の多い地点を確認すると、
*神明久保遺跡第1地点:50
*高林寺遺跡第3地点:36
*天神前遺跡第7地点:28
*神明久保遺跡第9地点:26
*神明久保遺跡第8地点:22 
などが突出した出土数となっている。
そして、谷川の南側に立地する地点が全体の6割を占めるという様相もうかがえる。
以前、国府の鍛冶工房の意味付けに関して教わったこと…国府は生産地であると同時に消費地であること…を念頭におきつつも、相模国庁が9世紀前葉に終焉してゆくなかで、天神前遺跡・神明久保遺跡が、ともに9世紀後半において活発な活動を見せることをどうとらえればよいのだろうか?と思う。
なお、地図中で東中原G遺跡・新町遺跡の大規模な溝状遺構の要素を付け加えた…国府造営活動のなかで、これらの大溝が果たした役割は?…。)

 

なお、≪墨書・刻書土器から見る”相模国府と大住郡の活動域”≫を再掲しておきたい。

墨書・刻書土器から見る”相模国府と大住郡の活動域” - enonaiehon (hatenadiary.jp)

 

大念寺の南…道路を挟んで南に建つ「湘南新道関連遺跡」の解説碑:
遠くに大山の稜線を望む(推定・西脇殿跡が検出された地点)

天神前遺跡の調査現場:
くずれやすそうな地層で、見るからに調査がむずかしそうだった。かなりの数の竪穴住居が重なり合って展開しているとのお話だった。
この現場の東隣にあたる…たぶん?…天神前遺跡第10地点の調査では、大型掘立柱建物(2間×7間以上、東西棟)が出ていて、「鍛冶工房群を管轄する官衙施設の可能性」(『遺跡が語る地域の歴史』平塚市博物館 2004年)が指摘されている。

今は暗渠となっている「谷川(やがわ)」の流路:
構之内遺跡遺跡の東端から、谷頭が位置する山王B遺跡方面を望む。

 

五月の総合公園、そして八俵山。

 

連休が終わった。

後半の3日に、パイロット通りを経て総合公園へと向かった。

この連休を待つように、薔薇たちはそれぞれの色彩と香りを惜しげなく人々にふるまっていた。
ようやくデビューの時を得て、その短い機会を逃さぬよう一斉に花開く…薔薇たちのそのいさぎよさがまぶしかった。

また、5日は高麗山に出かけた。
八俵山の尾根道をわたる風、木洩れ日、小さな花や蝶たち、姿なく囀り、時に短いドラムの音を伝えてくる鳥たち。
それらは、移ってゆく季節のなかで、ひっそりしてみたり隠れんぼをすることもあるけれど、出会った時には小さな挨拶をしてくれる。

さわやかな季節のなか、日本の連休が終わった。
人々がゆったりと休日を楽しみ、生き生きと季節を味わう…本当に素敵なことだ。そんな時間を世界じゅうの人々がひとしく過ごすことができれば、もっともっと素敵だ。

 

パイロット通りと総合公園で~

一重の薔薇パイロット工場)         紫の薔薇…”薔薇の名前”は?

フレンチレース             マイダス(ミダス)タッチ

 

日本庭園のタニウツギ          メタセコイアの並木道



~高麗山(八俵山・浅間山で~

マルバウツギ

 

オオジシバリ              アカボシゴマダラ

 

フタリシズカ              キンラン

 

 

 

四月の薔薇と菫。

 

今日28日は佳き夜となった! 

民主主義を祝福し、ささやかなお祝いとして人魚姫の公園で撮った薔薇を『enonaiehon』に飾ってみる。
安曇野の友人ともメールで喜びあった。一緒に乾杯できないのが残念だったけれど。)

 


クリムゾン・グローリー

 

イレーヌ・ワッツ

 

あと、悪条件と闘いながら、今春も路上のスミレは頑張って咲いた…。頑張れ!



 

 

【写真比べ】1988年と2024年の室生寺五重塔

 

先の「3月末の葛城古道そして室生古道。」の記事 
3月末の葛城古道そして室生古道。 - enonaiehon (hatenadiary.jp)
を受けて、1988年末に室生寺を訪ねた当時の写真(スライドをのちにデジタル化したもの)と、2024年3月末撮影の写真(前記事)を比べてみることにした。

今春の旅では、室生寺五重塔は驚くほど変わった…と感じたのに、今、写真を見比べてみると、私の記憶がデフォルメされていたのだな…と思うしかなかった。
つまり客観的に見れば、室生寺五重塔は変わっていなかった…。

それでも、変わっていないようでいて、36年の時間の隔たりはまったくないわけではなさそうだ(”修復前”から”修復後”という、”古”から”新”への違いだろうか)

軒のそりも、そういう眼でよくよく見つめると、微妙に…ごく微妙に異なるようにも思えてくる。

36年は短いのか長いのか?
2100年頃の室生寺五重塔とは、はたしてどのような姿になっているのだろう…?

 

室生寺五重塔…今昔】 1988年(左)と2024年(右)