7日早朝、家を出た時にはまだ雪は降っていなかった。平塚からバスで秦野をめざし、乗り継いで桜土手古墳公園へと向かった。その途中で雪が降りはじめた。
途中で、バスがなぜか渋沢駅に向かっていることに気づき、慌てて下車した(確かめて乗ったはずが、乗るバスを間違えていた)。
雪の降り方は強まっていた。傘をさす手がかじかむ。はだの博物館の講座が始まるまであと20分弱…雪の中をあたふたと博物館まで走り続けた。
夢中で走った甲斐があって、何とか時間ギリギリで博物館にたどり着く(すでに大勢の人々が田尾誠敏氏による「古代の根丸島遺跡」の講座を待っていた)。
暖かい会場で講座が始まった。
根丸島遺跡…秦野市にある古代の集落遺跡であること以外は何も知識が無かった。講座のなかで聴くこと全てが興味深く感じられた。
以下、配布資料を読み返しつつ、聴講した内容をまとめてみた。
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*702軒(調査範囲25000㎡)の竪穴建物、掘立柱建物は8棟のみ
(削平されたり、掘り込みの浅い竪穴建物や、掘り込みを持たない平地式建物が存在した可能性も)
*弥生時代中期後半~平安時代の集落跡
*古墳時代中期前半(5c前半)の竪穴建物がゼロで、集落に断絶があること
*古代の竪穴建物【カマドを持つ方形の竪穴建物+古墳時代前期末(4c末)・中期(5c)】の時期別割合の推移から、
〇根丸島遺跡が、古墳時代後期後半~平安時代前期(7c:45軒、8c:29軒、9c:40軒 )に盛期を迎えること
〇盛期(7c~9c)の竪穴建物軒数【最大でも182軒=7~9c(114軒)+時期不明(68軒)】から、同時期に存在した竪穴建物は15~12軒ほど(耐用年数25年で15軒程度、20年で12軒程度)と推定され、大規模集落とは言えないこと
*根丸島遺跡は、律令制下の大住郡櫛崎郷に含まれる可能性があること(ハケ整形・ヘラ削り整形の長胴甕が拮抗して出土する根丸島遺跡の様相は、師長国造〔→余綾郡〕と相武国造〔→大住郡〕の支配領域の境界域であることを示していること)
*5c後半の根丸島遺跡では須恵器の出土が多いこと、また祭祀関連遺物の滑石製模造品が出土すること(同時期の平塚市沢狭遺跡と類似すること)
*”S字甕の成れの果て”と言われる”宇田型甕”(三重県・愛知県など、伊勢湾沿岸で生まれた台付甕)が出土していること(根丸島遺跡では、県内3例のうちの2例が出土)
*羽口や皇朝十二銭などが出土していること(皇朝十二銭は地鎮などのため、住居跡から出土することがあること)
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7c~9cの根丸島遺跡(竪穴建物総数702軒のうち最大で182軒)で同時期存在の竪穴建物軒数【耐用年数25年で15軒程度、20年で12軒程度】は、7c後半~10c後半の相模国府域(竪穴建物総数898軒)の場合の同時期存在の竪穴建物軒数【耐用年数25年で1775軒、20年で1420軒、15年で1065軒】(「発掘から見た相模国府」明石新 『国史学』第156号 1995年)に比べ…単純に比較はできないとしても…、かなり少ないのは確かなようだ(秦野市民の方にはちょっと残念にな結果かもしれない…と思ったりした)。
また、相模国府域の盛期が8世紀前半と9c後半であるのに対し(7c後半:21軒、8c前半:142軒、8c後半:72軒、9c前半:79軒、9c後半:175軒、10c前半:117軒、時期不明185軒)、根丸島遺跡の盛期は7c~9cであること(7c:45軒、8c:29軒、9c:40軒、時期不明:68軒)…その盛期のずれにも興味をもった(根丸島遺跡で8cに竪穴建物軒数が落ち込むのは、相模国府造営のために駆り出されたから?といった妄想も浮かんだりした)。
また、会場に展示されていた「宇田型甕」の色や質感や調整痕が物珍しく、印象に残った。
講座を聴き、こうした珍しい土器を間近に見たことも嬉しかった。
博物館から秦野駅に向かう帰りのバスが無かったので、渋沢駅まで雪景色を楽しみながら歩いた。寒かったけれど、”雪に唄えば”の気分だった。
(帰宅後、『平塚市史』や『平塚市考古資料50選』を見て、御所ヶ谷遺跡の円形周溝墓から、S字口縁の三連小型台付甕〔古墳時代前期 4c / 口径7.9 ㎝・現存高6.3 ㎝〕などが出土していることを確かめた。)
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「三連小型台付甕は円形周溝墓の南西部と南東部の2 か所から破片で出土し接合しました。三連小型台付甕の口辺断面はS字状で、胴体部は算盤玉状、脚台部はハの字形に開き下半部は欠けていました。円形周溝墓に分割埋納されていたことは、この珍しい土器と被葬者との間に何か深い関係を想像させてくれます。被葬者に対する最高の敬意を表す意味において、この人物の葬送に副えた土器と考えられ、副葬品としての土器には、しばしばこれを割って埋納する例が少なくありません。」
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hirahaku.jp/web_yomimono/kouko/ko50-24.html『平塚の考古資料50選』から抜粋・引用
~企画展「根丸島遺跡」の資料から~
古墳時代中期の壺(左)とS字口縁の”宇田型の甕”(右)
S字口縁の”宇田型の甕”(329号竪穴建物 古墳時代中期 根丸島遺跡)
羽口、皇朝十二銭「神功開宝」、軽石製品

有鈎銅釧(249号竪穴建物 弥生時代後期~古墳時代後期 根丸島遺跡)
根丸島遺跡全体図