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私の第三十四夜をつづります。

ふるさと平塚に里帰り➀:”縄文のエンジェル”さん、こんにちは!

24日、あいにくの雨のなか、いそいそと平塚市博物館に向かった。
(博物館のHPの写真を見て、万田貝塚の土偶も平塚に里帰りしていると分かったのだ。)

こんな気持ちで特別展示室に入ったのは初めてだった。
(展示室の闇と光のコントラストが、いつもより鮮やかに感じられた。)

『わっ…』と思う。
展示室の闇のなかで、その小ぶりなガラスケースは光であふれているように見えた。
その光に囲まれた小さなひとは、何かかすかな声を発している。
愛らしい”縄文のエンジェル”?…?
その天使は渦巻模様の羽をひろげ、陽を浴びる蝶のようにやすんでいる。

その造形から発せられる声は、視覚的には”見えている”。私には聴きとれないけれど、何かを語っている。

万田生まれの”縄文のエンジェル”は、ふるさとに戻って、今何を語ろうとしているのだろうか。何を歌っているのだろうか。

多くの人に、その愛らしい天使が、そのかすかな声で語っている言葉を、ぜひぜひ聴いてもらいたいと思った。
(縄文時代の言葉がわかる方は「なぜ、うしろに把手があるのか?」と尋ねてみてください。そして、その返事が聴こえたら、私にも教えてください。)

 

「盛綱陣屋」に惑う。

 

20日は歌舞伎座に出かけた。
曇り空の銀座…相変わらず、行き交う人々でにぎわっている。

歌舞伎座に着き、十月歌舞伎の千穐楽の日だった、と気づかされた。

今日も仁左衛門さんの舞台を見ることができる…それだけで嬉しくて開幕時間を待つ(背中に壁を背負った席にすわった)。
その2階席の前方には、外国からの観客も見かけられた(年配の方々や学生さんのような二人連れ、オペラグラスを手にして一人で観劇している若い女性の姿もあった。彼女はイヤホンガイドを付けていない…AIデトックスだろうか、それとも歌舞伎を良く観ている方だろうか?などと余計な詮索をしてしまう)。

このところ、仁左衛門さんの姿を観たいがために上京しているけれど、舞台に引き込まれ、時に思いがけなく涙してしまうこともあった。
ただ、今回はなぜかフラットな気持ちのまま舞台を観終わった。

首実験の場面で盛綱の表情の移り変わりを単眼鏡でつぶさに見つめ、私なりにその表現から読み取れるものを探そうとしたけれど、”正解”というものにたどりつけたのかどうか分からなかった。
(観客は高綱の存在を感覚的には把握できないので、その韜晦的な存在を背後にして揺れ動く登場人物たちの行動の解釈には、そもそも”正解”はないのかもしれないと思った。つまり、盛綱も小四郎も”高綱の影の形”をそれぞれに読み取って行動しているだけかもしれなかった。)

歌舞伎座の外に出ると、銀座は薄暮の世界に変わっていた(この現実的変化が、観たばかりの舞台のように美しく感じられた)。
人波のなかで、仁左衛門さんの”これぞ!”という姿の看板を写真に撮っている人を見かけた時、ほんのりと安心した(私と同じ…?と)。

 

「帰るか、ひらつか ――― 」

10月24日(土)から始まる秋期特別展
『名品たちの里帰り~平塚ゆかりの考古資料~』
     
「帰るか、ひらつか  ――  」 

平塚市博物館開館50周年にあたる2026年…10月24日から始まる秋期特別展で『もしかして、とうとう会えるのかな?』と(もし帰ってなかったら…の不安も入り混じりつつ)心待ちしているのが、次の万田貝塚出土の土偶だ。

東京大学総合研究博物館データベース 人類先史 縄文時代土偶・土製品画像

東京大学での貴方の名前は「標本番号    600」だった。
縄文時代後期のハート形土偶に分類された貴方の背の高さは10.9cm。
小さいことは知っていたけれど、背面に把手があったなんて(その天使のような背中も見せてもらえるのかなぁ…そして、その背面の把手は何のためなのか、教えてもらえるのかなぁ…)

カツラの葉は黄水晶の色に。

 

18日、平塚市博物館で「郷土史入門講座:古代の交通と更級日記」を聴いた。
2年前のテーマと重なる今回の講座のなかで、とくに印象に残ったのは、「”箕輪駅家”は、市内の豊田地区【註】にあったのではないか?」との新しい言及があったことだ。
【註】
この豊田地区の東の地域の大字に「豊田打真木(とよだうちまぎ)」があり、『平塚市地名誌事典』(小川治良 2000年)による解説の要点は次の通りだ。

*江戸時代から明治22(1989)年まで:「打真木村」(大住郡下の村名)
*1889年:町村合併により、豊田村の大字「打真木」となる
*1956年:大野町と合併し、「豊田打真木」となる
*地名の由来:「打真木」は「内巻(渋田川の曲流の内側に巻き込まれたような地形)」の替え字、あるいは、「うちまぎ」は「うちまき」の転訛で、「まき」は「牧(牧場)」のことではないか?

今回の新しい言及では、相模国府域で検出された「推定古代東海道駅路」(東中原E遺跡の状況から、道路は国府域内から渋田川を北西方向に渡河して豊田地区に入ることが予想される)の「箕輪駅家」として豊田地区があてられ、その駅馬の飼養地として「豊田打真木」が想定されているようだ(国府域内の「箕輪駅家」の位置として、国府域西部…厚木道遺跡や山王脇遺跡などの地域?…をあてる見方とは別の新しい想定となる)。

また、『更級日記』の「武蔵と相模との中にゐてあすだ河といふ。在五中将のいざこと問はむとよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。」のくだりの解釈では、2年前の講演と同じように、

”武蔵国・相模国の国境は近世東海道「保土ヶ谷宿」~「戸塚宿」の中間地点にあたり、柏尾川へと河川が集まる地域で浸水域となる可能性があり、古代には舟でその浸水域を渡ったのではないか?”

という主旨の解釈が示された。
(この想定について、前回の講演では、私自身は『更級日記』の作者が単に記憶を混同した可能性が大きいように感じていた。ただ今回は、国境を舟で渡った…という作者の記憶が仮に正しいとした場合、保土ヶ谷から戸塚まで、東海道沿いの河川を曳舟のような形で通行した可能性もあるのでは?と妄想した。帰宅して地図上で確かめてみると、国境付近の「権太坂」~「境木」まで、帷子川・今井川の川筋をたどれそうだった。ただ、当地に曳舟道であった記録・伝承が残っていないのであれば、その可能性は低い…いつか現地で「境木」までの地形や今井川の姿を確かめてみたいと思う。)

講座が終わった。ほぼ満席だった講堂から人々が帰ってゆく。
外には秋の空、秋の空気が広がっている。
文化公園の石畳の道を歩きながら、古代の東国の交通に大きく係わる『更級日記』について、藤沢市の歴史講座(博物館準備担当)でも詳しく教えていただいたこと、また千葉県市川市の講座で学んだことも思い出した。

秋の石畳の道の先には、復活したカツラの樹の黄葉した姿があった。
見上げたその色は、さっき帰り際に見たばかりの黄水晶の色に似ていた。

 

★追記★
今、博物館の寄贈品コーナーでは、美しい鉱物が並んでいる。

_____「あなたと博物館」2026年10月号から_________

寄贈品コーナー展示 宮沢賢治と石と星 会期:10/3 ( 土)~12/2 ( 水)

宮沢賢治は現・岩手県花巻市出身の詩人・童話作家です。彼は当時の
天文学や地学に対する造詣が深く、作品中にも天体や岩石・鉱物などが
しばしば登場します。宮沢賢治生誕130 年となる本年、石や星と彼の作
品との関わりについて紹介します。
___________________________

(黄水晶:左下の大きな水晶の隣)

また、 24日からは秋期特別展
『名品たちの里帰り~平塚ゆかりの考古資料~』
     
「帰るか、ひらつか  ――  」 

が始まる。

(みんな、ようこそお帰り! 会いたかったよ!)

ムラサキツバメに出会った日。

13日、懲りずに総合公園に出かけた。
毎回、『今日こそ、たくさん蝶が飛んでるかも…』と思って出かける。
そしていつもガッカリして帰るのだ。
(『蝶がいなかったのも一つの記録…』とあきらめてきた。)

でも、13日はこれまでの調査で一度も出会ったことのない蝶が、公園の入り口近くで出迎えてくれた。
『あれ…枯れ葉?…もしかして?』
形は蝶の翅のようだったけれど、その色合いは見たことが無かった。
そっとそっと近づく。動かない。
確かに蝶に違いなかった。じっとしたまま石の上で休んでいる。

そのあとも、キタキチョウやキタテハなど、数種類を記録に残せた。
空からトンボの群れが姿を消した代わりに、地面にはドングリがいっぱいだ。
これから年末にかけて、どのくらい蝶たちに出会えるだろう?
今日もあきらめずに来て良かった。

ムラサキツバメ:
翅の下先に細い突起がある。
ガイド冊子で確かめると「都会の公園や街路樹のマテバシイで発生」とあった。

キタキチョウ:
めったに留まってくれないのに、優雅な姿で休んでくれた。
肉眼で斑点を確かめられたのが嬉しい。

キタテハ:
草むらに腹ばいになって、その翅の両面を間近に見ることができた(蚊に刺されたけれど)。裏側はムラサキツバメより、もっと枯れ葉にそっくりだった。

ドングリの背比べ(日本庭園で)

 

メモ:岳南鉄道と富士

 

~20261004:初めて富士市を訪ねて吉原駅で降り、初めて岳南鉄道の電車に乗り、初めて田子の浦港に立ち寄って~

【街角の富士山(吉原駅付近で)】:
この日で見た富士山の中で、一番雲がかかっていない姿。

マンホールなど(富士市‐吉原駅付近)

【岳南鉄道の車両(吉原駅)】

【下左】車内の運賃箱:
降りる際、この機械に切符や料金を入れるわけではなく、駅に着くごとに運転室から運転手さん(兼車掌さん)が出てきて木の小箱を差し出すので、そのなかに入れる仕組みだった。これもまた、初めての経験だった。神谷駅で降りるとき、「この切符、貰えないですよね?」と尋ねたら、即座に「いいですよ」とこたえてくれた。
【下右】固い紙の切符:
旅の記念に写真で残しておこうと思って撮ったけれど、そのまま持ち帰ることができた(切符を貰えるのは能登鉄道以来なので、嬉しかった)。

【下】岳南鉄道・江尾(えのお)駅:
左の壁に「海抜2.8m」の表示があった。
地理院地図を見ると、駅の南側(かつての浮島ヶ原)はもっと低い。古代において、箱根越えで相模国に向かう人々は、この駅の北側の道(愛鷹山南麓)を通るか、海沿いの道の道を通ったものと想像される(『更級日記』の菅原孝標女の一行はこの地でも海沿いの砂丘ルートを選んだのだろうか)。【下左】プラットホームから見る岳南江尾駅入り口:カフェがあり、季節の花が咲く駅。
【下右】駅入り口からホームへ、階段の無いスロープで:
この終点「江尾駅」に着くと、運転手さんは車両内を歩いて逆側(吉原駅側)の運転室に移り、「吉原駅」へと折り返し運転をするのだ。

吉原駅に戻る電車に乗り、今朝くぐった不思議な工場施設を調べてみた。「日本製紙富士工場」の施設だった(SFアニメの世界にまぎれ込んでしまったような不思議なくぐり抜けだった)。

【この日最後に見た富士山:田子の浦港の「富士と港の見える公園」の近くから】

10月9日のノビタキ。

 

 

10月9日午後、家族を誘い、久しぶりに”水辺の楽校”に出かけた。
(「そろそろノビタキが来ているかな?」と、腰痛を抱える家族も…期待を込めて…望遠レンズを持って出かけた。)
のんびりと歩きながら馬入川の水辺にたどり着く。
午後の斜光に照らされて輝く馬入川の水辺を見渡す。
遠い空から降下してきた飛行機が向きを変え、対岸のビルの後ろに姿を消す。
(厚木の飛行場に降りたのだろうか?こんなに近くに見えるものだろうか?と不思議に感じた。)

コスモスや百日草が咲くお花畑では、何やら多くの人が一ところに集まっている。近づくと、それぞれの大きなカメラを畑に向けて固定している。
そのなかの一人の方に、家族が「何を撮っているんですか?」と尋ねると、「ノビタキです」と返ってきた。
みな、ノビタキの登場を待っているのだった。

私たちはそのまま小路を進み、風車の広場で一休みしたり、カエル池を巡ったりして、秋の散歩を楽しんだ。午後の陽射しもずいぶん傾いてきたので、ノビタキのようすを見てから帰ろう…と、畑に戻ることにした。

その畑では緊張感が漂っているように見えた。どうやらノビタキが畑に来ているようだ。
そっと人々が集まっているところに近づくと、畑の土色に紛れて、小さなノビタキがいるのが分かった。
ノビタキは地面から細い枝先に戻ったり、また地面に降りたりを何度も何度も繰り返している。
秋の風に揺れる枝と一緒に、ノビタキも静かに揺れている。
家族もカメラを向けて、期待通り、秋の訪問者の姿をとらえることができた。

人々はまだまだ畑を去るつもりは無さそうだった。
良い秋…しみじみそう感じた時間だった。

 

〔家族が撮ったノビタキの写真とは並べるべくもないけれど、私の写真も下に残してみた。〕

ウラナミシジミのコバルト色と”裏波”模様


馬入川の島陰で休むチュウサギ?