2年前に行われた六ノ域遺跡第20地点の現地見学会(2022年2月26日)に参加して以来、平塚市博物館の「発掘速報展:六ノ域遺跡第20地点」(2022年3月20日)や平塚市社会教育課の記者発表「六ノ域遺跡から平安時代の鏡が出土」(2022年3月24日)、今春の「第46回 神奈川県遺跡調査・研究発表会」(2024年3月17日)などを通じて、六ノ域遺跡出土の「瑞花双鳥文八稜鏡」の年代が11世紀前半であるという点に関心をもち続けてきた(「11世紀前半」…私にとって、歌人相模と平塚を結びつける年代そのものだったから)。
今回、この八稜鏡を改めて思い出したのは、12月初めに出かけた五島列島の旅の途中で「上五島〔かみごとう〕のローカルをみる 山王山にまつわる地域資料のご紹介」(新上五島町 鯨賓館ミュージアム)というチラシを見かけたからだった。
そのチラシには、中通島の”山王山”の伝承…遣唐使・最澄にまつわるもの…と結びつく考古資料「湖州八花鏡」(*)の写真が載っていた。
(*中国・宗代の浙江州湖州を中心に作られた鏡で、8枚の花弁の形をしたもの。)
その八花鏡が八稜鏡と似通うこと、その性格が「雄嶽日枝(おたけひえ)神社の報賽鏡」とされていることで、六ノ域遺跡第20地点の「瑞花双鳥文八稜鏡」を思い出したのだった。
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「…中世面の調査終了後、調査区南東側で奈良・平安時代の包含層掘削中に八稜鏡が出土しました。当鏡は円形の界圏線内に草花と2羽の鳥の文様を有するもので、唐の鏡を模倣した瑞花双鳥紋八稜鏡です。出土を確認した時には掘削道具に当たって移動していましたが、地面に残存した形跡から、鏡面を上にして埋まっていたようです。周辺を精査しましたが、掘り込み等は検出できませんでした。当該地点は、10世紀後半~11世紀前半頃の土師器坏を伴う21号住居址の床面より30cm上層にあたり、当址が廃棄され、埋没する過程で、八稜鏡が埋納されたと推定されます。」
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(国際文化財株式会社 土 任隆氏による報告から抜粋・引用〔「第46回 神奈川県遺跡調査・研究発表会」発表要旨 2024年〕)
そもそも、私は六ノ域遺跡の八稜鏡が歌人相模と係わるような資料だったら…という妄想を楽しんでいたので、”埋納された鏡”とすれば、その目的はどういうものだったのだろう?と思っていた。
一千年前の夏、「館」が焼けたとすれば…。 - enonaiehon
今回、中通島で見かけたチラシの八花鏡が「報賽鏡」として埋納されたとすれば、六ノ域遺跡の八稜鏡も、その埋納目的として“報賽”の性格を持っていたのかもしれなかった。
しかし、六ノ域遺跡第20地点の出土状況は、あたかも打ち捨てられたかのような印象があった。
で、ここから私の突飛な妄想が始まる。
その妄想に係るのが『相模集』の次の二つの歌(走湯権現奉納百首〔222~524〕の中の230の歌、そして”館の火災”〔1024年夏か?〕を経てのちに詠んだ〔1025年春か?〕433の歌)だ。
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230 若草を こめてしめたる 春の野に 我よりほかの すみれ摘ますな
433 もえまさる 焼け野の野辺の つぼすみれ 摘むひとたえず ありとこそ聞け
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この二つの歌で歌人相模は、東国下向に従った”妻”の自分をさしおいて、現地でも絶えず”愛人(すみれ)”を求める”夫”・大江公資の行状を走湯権現に訴えている。
そして、433の歌では、あえて「焼け野の野辺の」という歌詞を使うことによって、あたかも”館の火災”があったばかりの国府域…かつて”大野”と呼ばれた地域…を想起させているように私には思えたのだ。
【230・433の歌の個人的読み取り】
相模集-由無言5 「さてそのとし館の焼けにしかば」と「焼け野の野べのつぼすみれ」 - enonaiehonから抜粋
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〔註〕上掲の233の歌の「若草を こめてしめたる 春の野に」についての私の解釈は、あくまで素人の恣意的な読み取りであることを改めて付記しておきたい。
230:「私をとじこめて自分のものとしている春の野で、すみれを摘むような気持ちで他の女性に手をだすことを、夫にさせないようお願いします。」
433:「野焼きをした野原に、ますます盛んに萌え出てくるつぼすみれの花を、ひっきりなしに摘む人がいると、うわさに聞いているのです。
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(つまり、走湯権現に祈った願いごとはついに成就しないまま、帰京の日を迎えることとなり、京から持ち込まれた八稜鏡は虚しく国府域内に打ち捨てられ、一千年の時を経て、六ノ域遺跡第20地点で発見される…というストーリーだ)。
さらに私の妄想は暴走し、230・433の歌にこめられた歌人相模の想いを八稜鏡の文様にも結びつけようと、拙いトレース(下図①)も試みた。
(六ノ域遺跡の八稜鏡は、”鳳凰文”や”鴛鴦文”とは分類されずに”双鳥文”とされているけれど、もし”鴛鴦文”〔夫婦和合を象徴する文様〕の可能性が残っているならば、歌人相模の大江公資への想いと重なるのでは?と感じたためだ。)
結局、写真では文様の細部が読み取れず、”鴛鴦文”の可能性を確かめることはできなかった(オシドリに特徴的な銀杏羽〔いちょうばね〕に似た形などを探そうとしたが把握できなかった。ただ、少なくとも尾羽の長い”鳳凰文”ではないと感じた)。
また、歌人相模が百首を交わした走湯権現(現・伊豆山神社)にも、”鳳凰文”の「瑞花双鳥八稜鏡」(径14.9㎝/11~12世紀)が残されているので、この鏡についても拙いトレース(下図②)を試みた。
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…唐鏡の要素を鏡体や文様に取り入れた瑞花双鳥八稜鏡は、九世紀から十二世紀にかけて多く制作された。鈕を中心に向かい合う二羽の鳳凰を主文様として点対称に配する構図は、唐鏡の影響が強く見られるもので瑞花双鳥八稜鏡の中では古式といえるが、本品のように文様、また界圏を外形と同じ八稜形とする形式は、寛弘四年(一〇〇七)の刻銘がある金峯山経塚出土の品(重要文化財、鏡面は胎蔵界五仏鏡像、東京藝術大学所蔵)に確認でき、その制作年代を類推することができる。(田澤)」
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(田澤梓氏による展示解説から抜粋・引用〔『伊豆山神社の歴史と美術』奈良国立美術館 2016年〕)
六ノ域遺跡のものより保存状態が良いためか、精緻で美しい文様だと感じた(もしかすると、こちらの鏡こそが、歌人相模によって百首とともに奉納された品なのかも?という思いもよぎった)。
①「瑞花双鳥文八稜鏡」の文様の粗描図(六ノ域遺跡第20地点出土/径111㎜/11世紀前半):外区・内区の文様が、伊豆山神社の「瑞花双鳥八稜鏡」に比べ簡素化されていること、界圏が円形であることなどは、伊豆山神社のものより新しいことを示すのだろうか? それとも格式や用途の違いなのだろうか?
【参考】「双鳥文」の片方の粗描図 【参考】オシドリが飛び立つようす
(静岡県伊東市 松川湖 2018年10月)
②「瑞花双鳥八稜鏡」(伊豆山神社)の文様の粗描図
それにしても、六ノ域遺跡で眠っていた11世紀前半の鏡が、一千年後に掘削道具に当たって発見されるとは…と思わずにいられない。
いつか、この八稜鏡について新しい知見に出会う日まで、ここで書き留めた荒唐無稽な妄想を楽しもうと思う。
【参考】チラシに載っていた「湖州八花鏡」
(長崎県上五島町 雄嶽日枝神社)