enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

相模国府域への「道」①地域の境界線との重なり

以前から、『平塚市地名誌事典』の地図を見るたびに、大字「四之宮」や小字の境界線が気になっていた。

*「推定相模国庁」の南に位置する「大会寺」を扇のかなめとして、北東・南西側に「ノ」の字形に翼を伸ばすような形であること(相模川の浸食による地形的制約?)
*大字「四之宮」・「真土」南西端に位置する小字「梶谷原」や「二十二之域」~「二十三之域」の南西境界線が、「推定古代東海道」と重なる(並行する)こと

今回、「四之宮/梶谷原」・「真土/二十二之域~二十三之域」の南西境界線のほかにも、字の境界や旧地形図の道路と重なる、あるいは並行する道路状・溝状遺構があるのかどうか、確かめてみることにした。
(そもそも字の境界は、道路や自然地形に沿って区分されることが多いはずで、そうした字の境界と重なる道が140年以上前の旧地形図上に存在したとしても、それが奈良・平安時代にまで遡る可能性は高くないと思う。ただ少なくとも、字の境界や旧地形図上の道と重なるような古代の道状・溝状遺構が検出された地点を洗い出すことは無駄にはならないと思ったのだ。残念ながら、すべて確認することはできなかったけれど。)

≪個人的map:相模国府域周辺の道路状・溝状遺構、旧地形図上の道路、字の境界線≫ 
赤点線:旧地形図(明治15年測量・24年修正の迅速図)の縣道・里道・村道・騎小径などからトレース
黒点線:推定古代東海道ルート
黒太線:道路状遺構  茶太線:溝状遺構  
黄緑の太網線:消失した古墳(伝承)群の範囲  灰緑色の円:旧真土村「字  三野」の範囲
   

結果、上掲の地図上で、赤の計3個のと白の②の地点を結ぶラインが国府域を東西に、また、赤の計3個のを結ぶラインが、国府域を南北北東南西に通り抜ける形になった(どちらのラインも、失われた道を含むので、実際に足でたどることはむずかしい)

「四之宮/梶谷原」・「真土/二十二之域~二十三之域」の南西境界線:
 構之内遺跡第3地点~東中原E遺跡第4地点の道路状遺構から推定される”考古学的古代東海道”ラインと重なる(並行する)

 大字「四之宮」・「八幡」の境界線(北東~南西の斜向ライン)
 かつて「大道/役道」と呼ばれた古道の一部と重なり(「大道/役道」は、平塚八幡宮付近から北上する「八王子道/厚木道」と [フタツヤ] 付近で合流する)、花水川手前のの位置では「平塚城跡」第2地点「H1道」の斜向ライン(N72°E)と重なる

 なお、溝状遺構では、白の③・④の4地点が浮かび上がった。
① 大字「真土」・「四之宮」の境界線(東西ライン)
 高林寺遺跡第3地区のSD01=高林寺遺跡第1地区-2のSD03=諏訪前遺跡第1地区-3のSD06を結ぶ東西ラインに沿う
 大字「四之宮」・「八幡」の境界線(東西ライン)
 高林寺遺跡第16地点のSD03・07、SD04・05の東西ラインに並行する
 (すでに検出された「推定古代東海道」の東側延長推定ラインになる可能性は?)
③ 大字「四之宮」の境界線と「粕屋道」(南北ライン)
 神明久保遺跡第5地区のSD01・02の南北ラインと並行する
④ ”厚木道”(”中原街道”の一部として、谷川右岸〔谷川北側]沿いに走り、小字名「厚木道」、遺跡名「厚木道遺跡」に名を残す)の斜向ルート(北東~南西ライン)
 東中原G遺跡第1地点の大型溝SD01の北東~南西ラインと重なる
 【妄想】この大型溝SD01(8c初頭~8c中葉)は、その機能も、新町遺跡第3地点の大型溝SD(8c初頭or中葉?~9c中葉)との関連性もまだ解明されていない。なので大いに妄想が広がる。その突飛な妄想をメモすると次の通りとなる。
*新町遺跡第3地点の大型溝とともに平安時代から道路として使われた可能性は?
*道路として
長期に渡って機能し続けて”厚木道(中原街道)”の一部となった可能性は?
*西側延長ルートが中原街道ラインから南に離れ、南西側に位置する上宿遺跡(
中原上宿遺跡Ⅱ区)の道路状遺構SF01(9c代か)とつながる可能性は?
*東側に位置する構之内遺跡の後期道路SD20(9c中葉には機能~11c初まで存続か)とつながる可能性は?

以上のように、妄想の裏付けになればと≪個人的map≫をまとめてはみたけれど、結局、いつもどおり妄想のままに終わった。

『やっぱり堂々巡りか…』とがっかりしつつ、新たに国府域の古墳・塚の位置、律令期以前の時代の国府域の様相についても気になりはじめた。
次は、相模国府域の古墳と塚の所在地についても、簡単にまとめておこうと思う。

【追記】
地図中で示した灰緑色の円旧真土村「字  三野」の範囲)について:
相模国府について学びはじめ、平塚市内の東海道駅路のルートや「箕輪駅(家)」の所在地に関心を持ち、旧地形図を眺めていた時期があった。
当時、"「箕輪」とは水が曲がったところ”といったことから、花水川~渋田川が曲流する「字 南原~字 真土」にかけての一帯をイメージしていたし、『神奈川の古代道』でも中原上宿遺跡付近(「字 南原~字 真土」より内側の「字 中原」)に「駅家」「箕輪駅」が置かれているので、その視点で旧地形図を眺めるようになった。
そして今回、旧地形図上の「野 三 字」(右横書き)文字を眼にして、当時考えていたことを思い出し、敢えて「字 三野」の範囲を示してみた。
当時考えていた(妄想していた)ことは次のようなものだ。
○「箕輪 みのわ」の”みの”が「三野」の”みの”の読み方に通じるが、「箕輪」が「三野 みの」の表記・読み方に変化していった可能性は?
(『和名類聚抄 郷名考證 増丁版』に”讃岐国三野郡”・”阿波国三好郡三野”の例が載り、どちらの「三野」も”みの”と読むようだ。ただし、明治期の「字 三野」の読み方は不明。【註】『和名類聚抄 郷名考證 増丁版』(池邊 彌 吉川弘文館 1966年
○『平塚市地名誌事典』では、真土の小字名「三谷大原」「三谷山際」、馬入の小字名「三谷前」「三谷後」のいずれも"さんや"と読むので、明治期以降、"三野 さんや”が”三谷 さんや”に変化したことは確かなようだ。
(ちなみに『平塚市地名誌事典』では”「三谷」は「三屋」で、開拓家屋が三軒だったことに由来し”と解説されている。)

以上、当時の不毛な妄想をまとめてみた(「三野」が「箕輪」に遡る可能性は無いとしても、「三谷」が明治期の地図には「三野」と表記されていたことを示しておきたい)

春を待つ海。

 

16日は、午後もあたたかな陽射しが続いていた。
ずっと机に向かってばかりだなぁ…と感じる時、いつも寄せ波と引き波の景色が浮かんでくる。
”よし!”と自分に声をかけ、机の上に積み重なった資料の山を片づけてから海に出かけた。

ご近所の紫モクレンは満開になり、ユキヤナギも咲きはじめたけれど、海岸近くの桜の蕾はまだ目立つほど膨らんではいなかった。

浜辺に着くと藪のなかから三毛猫が出てきて人待ち顔をしている。のんびりとした姿。

砂丘上から相模湾を眺め渡した。江の島はくっきりと浮かび、大島はほとんど姿を隠している。海はうららかではあっても、まだ”のたりのたり”とはしていないようだった。

逆光の波間に浮かぶ小さな黒い人影。波打ち際の消えつつある足跡。
いつものように、夕光を映す濡れた砂鏡の上を歩く。海辺で育ち、今在ることを強く意識する時間だ。

 

  ハマダイコン


砂丘上のハクセキレイ


波打ち際の”小富士”

 


3月16日の海

 

【番外】3月4日の虹(家族からもらった写真)

沼目・天王原遺跡出土の銅印のこと。

 

1日、伊勢原市の遺跡調査報告会に出かけた。
中央公民館を訪ねるのは本当に久しぶりだった。この十数年間、考古資料展や調査報告会には行きそびれてばかりだった(昔は公民館の小さな展示場に所狭しと並べられた出土資料を間近に眺めるのが楽しみだったのに、今回も考古資料展は見逃してしまっていた)

報告された6地点のうち、3地点は厚木秦野道路の建設工事に伴うもの、残り3地点は伊勢原駅周辺の遺跡だった。6つの遺跡のそれぞれの個性的な様相が、解像度の高い写真映像や調査担当者の方々による詳しい解説によって次々と紹介されてゆく。
これまで眠り続けてきた遺跡たちが、今まさしく掘り起こされ、その姿が光のもとにさらされる。私たちはそれらの遺跡の魅力的な姿に眼を奪われる。

一方で、眼の前にもたらされた貴重な調査成果というものが、常に、遺跡の不可逆的な破壊と一体のものであることも確かなのだった(開発による無残な景観の変貌を眼にした時の無力感と、発掘調査現場や出土遺物をこの眼で見てみたいという欲望…その葛藤を繰り返している)

そうしたいつもの葛藤も、この日の会場で唯一見学した遺物の魅力の前に、あっさりと吹き飛んでしまった。
それは一つの小さな銅印(沼目・天王原遺跡第13地点出土)だった。

保存処理されているらしく、とても綺麗な形で、そのまま今でも使えそうな銅印だった。やや細めの線が何かしらの形を示して印面に浮き出ているのだけれど、何という文字が彫られているのか、想像できなかった(調査担当者の方の説明では、「升」という文字ではないか?とのことだった)

家に帰ってから、この銅印の印面写真をトレースしてみた。そして、反転した形を再びトレースし、次の3点をもとに素人の眼で印影を推定した。

鈕をつまんで印を押す時、鈕の縦方向と文字方向とは平行する?(鈕の縦方向に対し、鈕孔は横方向に開けられていると想定)

印面の陽刻部分が印面の中央ではなく片寄った位置におさまっているので、空白のスペースを上、陽刻部分を下と想定すれば、印影としてバランスが良くなるのでは?

陽刻部分の中に、点状の陽刻が一つ浮いているように見える?

以上の3点をもとに…まったくの素人として…文字の形をつかもうとした結果、「升」というよりも「村」の形に似ているのでは?という苦しい結論になった(妄想は素人の秘かな愉しみ…というか、大いなる勘違い?という妄想)

~沼目・天王原遺跡出土銅印の陽刻の形と印影(個人的推定)~

〔左〕推定した陽刻部分赤色:銅印を撮影した写真を粗描したもの)                                〔右〕推定した印影青色:〔左〕の陽刻部分を反転した形。鈕の向き、陽刻部分と空白部分のバランスから推定。銅印の印面に印影を載せてみたイメージで、あくまでも架空の図)

 

なお、神奈川県内で出土した銅印とさか形?・花びら形?の鈕、有孔)の4点(①~④)について、メモをまとめてみた。

①伊勢原市:「」?(沼目・天王原遺跡第13地点/SI07/8c後葉~9c前葉)辺30㎜
② 平塚市   :「(構之内遺跡第3地点/SI12/10c中葉)高さ32㎜・辺28㎜・重さ31.8g
③ 厚木市 :「の則天文字(飯山₋湯気沢/表採/平安末期)高さ36㎜・辺39㎜
④ 大磯町 :「(馬場台遺跡第19地点/灰溜りSK)高さ44㎜・辺37㎜・重さ64.95g

*出土郡は、①・② が大住郡、③ が愛甲郡、④ が余綾郡から出土
*推定時期は、① 伊勢原市「升」? ⇒② 平塚市「平」⇒ ③厚木市「證」の順で新しくなる(④ 大磯町「填」は時期不明)

≪個人的map:相模国府と大住郡の郷ー伊勢原市の古代集落遺跡ー
伊勢原市内の古代集落遺跡 沼目・天王原遺跡

〔註:伊勢原市の古代集落のうち、東から石田・峯~石田・源太夫~石田・羽黒遺跡、池端・久保遺跡~沼目・天王原~沼目・原之宿遺跡、西富岡・向畑遺跡、東大竹・市場遺跡、板戸・宮ノ前遺跡、串橋・後原遺跡、坪ノ内・榎戸遺跡などのおよその位置を で示した〕

 

中央公民館近くから眺めた3月1日の大山

コウノトリ「メネス」の旅

【コウノトリ「メネス」の旅(2013年8月18日~30日)
(「バードライフ・インターナショナル東京」2013年9月03日の記事を参考に「Geoogle My Maps」にまとめたもの)

~「メネス」がハンガリーからエジプトへと経由した地点について~
(「メネス」が経由した地点は、上掲のGeoogle My Maps」にえんじ色の記号[バードウォッチング]で示した8地点。北から南へと、下記の①~⑧と対応している) 
①セーチェーニ(ハンガリー):2013年8月上旬、メネスとその兄弟にGPS追跡装置を装着
②ホルトバージ(ハンガリー):「メネス」たちは2013年8月18日、故郷のハンガリーを離れ、ルーマニアへ
③カルパティア山脈(ルーマニア):2013年8月19日、カルパティア山脈を越え、ドナウ川付近へ
④ドナウ川(ブルガリア):ドナウ川付近で一晩でを過ごし、ブルガリア国境を越え、マルマラ海へ
⑤マルマラ海:マルマラ海を越え、2013年8月22日、トルコ到着
⑥アレッポ(シリア):2013年8月26日、シリア到着
            〔シリアの内戦で化学兵器が使われたとされるのはこの頃か?〕
⑦イスラエル:ヨルダン国境を越え、2013年8月29日、イスラエル到着
       〔コウノトリたちが渡るイスラエルの空はガザの空とつながっている。鳥たちが飛ぶ空は果てしなく自由に広がっているのにと、口惜しく思う。〕
⑧ケナ…キナ…(エジプト/ナイル川):2013年8月30日、紅海を越えてエジプトのナイル川渓谷到着。2013年8月31日、ケナ(キナ)付近で怪我をした「メネス」が発見される。

スパイの疑いを掛けられたコウノトリがエジプトで拘束された | バードライフ・インターナショナル東京バードライフ・インターナショナル東京 

 

~私の旅の中のコウノトリ~ コウノトリの巣(モロッコ スクラ 1993年3月9日)
今から30年以上前のモロッコの旅。
カサブランカからマラケシュ・ワルザザートを経てエルフードに向かう途中、家族が撮った写真だ。
よく見ると、嘴が赤い。ヨーロッパとアフリカを行き来しているコウノトリが「シュバシコウ(朱嘴鸛)」なら、アンデルセンの物語に登場するコウノトリの嘴も赤かったはず…長生きすると、大昔の写真を見直したり、こんなことも想像できるのか。
(モロッコの現地ガイドさんは、鶏肉のタジン料理が出された時、「今夜のタジンはコウノトリタジンだよ!」と冗談を言ったりする人だった。今はもうガイドの仕事はしていないかなぁ…。)

モロッコではコウノトリの姿まで見かけたのに、なぜか私の旅の記憶のなかでは、ポーランドの旅で一瞬眼にしたコウノトリの巣のほうが強く印象に残っている。
なつかしくなって、その1988年5月の旅日記も読み直してみた。
ワルシャワからバスに乗り、田園地帯を抜けてショパンの生家まで向かった。どこまで平らかに広がる緑のなかを一本道がまっすぐ貫いている。そんなのどかな道を、老人が馬車にミルク缶を載せて走ってゆく。
連なる並木の樹上にコウノトリの大きな巣を見つけた時、『アンデルセンのお話に出てくるコウノトリの巣?』と心躍ったのだ。ポーランドの緑とコウノトリの大きな巣…その風景が忘れられない。
そして、到着したショパンの生家で感じたことも、ありありと想い起こすことになった。
_____________________________________

~「旅日記」から(ポーランド ジェラゾヴァ・ヴォラ 1988年5月1日)~

「(前略)
10:00 ショパンの生家着 小さな花が咲き乱れている 広い庭を散歩 川が流れている 小さなリス
11:00 コンサート 室内は20名足らずしか入らないので外でスピーカーから聞く 音色はひどいがポーランド人の弾く演奏に興味をもった 甘くない 
そよ風 小鳥のさえずり 暑いほどの陽差し ショパンの祖国ポーランドへの思いと現在のポーランド、そして傲慢な日本人旅行客とを思い比べ涙が出てきた 
外で聞かせるとは何事と色めきたち、プログラムの印刷が最低とののしり、資料を売るのが遅い、これだからいつまでも経済が発展しないと悪口雑言が続く 
昨夜も別の人が、共産圏はすぐ料理の皿を片づけたがると言いがかりをつけていたっけ 社会主義国に来るとこうした批判ばかりする日本人たちよ、偉くなったもんだ こんな人ばかりで本当に日本はどうなってしまうのだろう?(後略)
_____________________________________

「旅日記」のこの部分を読みながら、今の私の年齢の半分に満たない”かつての私”が、今もなお、自分の中に生き残っているのを感じた。物事の感じ方というのは、それほど変わるものではないのだろう。

2026年2月末にたまたま眼にしたコウノトリ「メネス」の記事から、数十年前の過去の自分にたどり着く。
長生きするとは、こういうことか。

追記(2026.2.27):
かつて、この『enonaiehon』でワレサ(ヴァウェンサ)委員長と赤い薔薇のことを記したことを思い出した。

2014.5.13 - enonaiehon

今思えば、私がポーランドを旅した1988年、民主化の大きな波はすぐ目の前に迫っていたのだ。あれから40年近く経ち、ポーランドは今、1人当たり購買力平価GDP や時間当たり労働生産性といった指標では現状の日本と並んでいる。

2月の総合公園で。

 

23日午後、総合公園に出かけた。

梅の花の咲き具合も、蝶たちのようすも気になっていた。
(冬越しした蝶の姿は期待できそうになかったけれど。)

三連休終わりの公園は梅見客や家族連れでにぎわっていた。
そして、公園内の草むらはすべてきれいに消え去っていた(充分な陽射しだったけれど、日光浴する蝶に出会うことはなかった)

蝶のモニタリング調査はあきらめ、梅も桜も咲く2月の公園の散策を楽しんだ。
歩きながら、季節のたゆまぬ流れも感じた(夏はあまりに過激に長くなり、夏のさなかに秋を予期することはむずかしいのに、今や、2月の陽射しであっても容易に夏の到来を予感するようになっている)

帰りに図書館に寄って、報告書のコピーの続きを取る(帰宅してその頁を確かめると、数日前にすでに取り終わった頁を含んでいた…70代半ばの脳力を実感する瞬間)

めげずに、ようやくの春を楽しむしかない…。

 

梅園の白梅               花かんざし


白梅の旗弁



白梅の後ろ姿              桜のつぼみたち

 

ひっそり隠れて咲く椿:
宇宙に向かって開いているようで、吸い込まれそうな姿。

人生の第4四半期へ…。

 

16日の午後、思い立って海に出かけた。
空は鉛色…今日は大島も富士も見えないな…と思いながら。

久しぶりの海は寒々としていた。
西から、2機のヘリが波打ち際に沿って近づいてくるのが見えた。
2機はお互いが並ぶように、海面低く飛び、東に去ってゆく。

操縦者から、この海はどのように見えるのだろう?
今日の海面は、北欧の海の色に似ているのだろうか?

空は鉛色でも、波色はやや青みがかって美しいのだった。

ひとしきり、西に向かって歩く。
足が失われたカニが、濡れた砂浜にいくつも打ちあがっている。

帰りは防砂林近くの砂丘上を歩いた。
防砂林から、色鮮やかな鳥が飛んできて、防砂柵の上に留まった。
まるまるとしたジョウビタキ。
じっと見つめていると「ヒッ、ヒッ」と啼いて林に戻っていった。

やはり生きている姿は良いものだ。
糞をして、啼いて、飛んでいく姿を見ることができて良かった。

2026年2月16日の海            帰り道で

 

明日17日は、昨夏亡くなった恩師の誕生日…と思い出す。
来年の今頃、私は恩師の最期の年齢と同じになっているはずだ。

2月の雪

 

2月になって二度の雪降りに出会った。旅先の銀山温泉で、そして投票日前の地元で。

湘南の温かな気候のもとで暮らしている限り、記憶に残る雪は珍しい(私の場合、「三八豪雪」で校庭の土手に”カマクラ”を作って遊んだこと、そして病に倒れた母と暮らすようになってから何回か家周りの雪かきをしたこと、その後は2014年2月8日の大雪で一時的に停電したことなど)

2月9日の朝…じきに雪は消えようとしている。
今回の衆議院議員選挙の結果を忘れないためにも、また新たな希望を持ち続けるためにも、今回の2月の大雪の思い出を残しておこうと思う。

 

銀山温泉の雪:2026年2月2~3日】


宿の窓辺のつららと雪明り(?)のステンドグラス

 

屋根の雪下ろし作業と雪に埋もれる銀山川・正楽寺


銀山温泉の夜と朝

 

 

【平塚の雪:2026年2月8日】
雪のなかの人魚姫