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私の第三十四夜をつづります。

六ノ域遺跡第20地点出土の「瑞花双鳥文八稜鏡」のこと。

 

2年前に行われた六ノ域遺跡第20地点の現地見学会(2022年2月26日)に参加して以来、平塚市博物館の「発掘速報展:六ノ域遺跡第20地点」(2022年3月20日平塚市社会教育課の記者発表「六ノ域遺跡から平安時代の鏡が出土」(2022年3月24日)、今春の「第46回 神奈川県遺跡調査・研究発表会」(2024年3月17日)などを通じて六ノ域遺跡出土の「瑞花双鳥文八稜鏡」の年代が11世紀前半であるという点に関心をもち続けてきた(「11世紀前半」…私にとって、歌人相模と平塚を結びつける年代そのものだったから)

今回、この八稜鏡を改めて思い出したのは、12月初めに出かけた五島列島の旅の途中で「上五島〔かみごとう〕のローカルをみる 山王山にまつわる地域資料のご紹介新上五島町 鯨賓館ミュージアムというチラシを見かけたからだった。

そのチラシには、中通島の”山王山”の伝承遣唐使最澄にまつわるもの…と結びつく考古資料「湖州八花鏡」の写真が載っていた。
中国・宗代の浙江州湖州を中心に作られた鏡で、8枚の花弁の形をしたもの。)

その八花鏡が八稜鏡と似通うこと、その性格が「雄嶽日枝(おたけひえ)神社の報賽鏡」とされていることで、六ノ域遺跡第20地点の「瑞花双鳥文八稜鏡」を思い出したのだった。

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「…中世面の調査終了後、調査区南東側で奈良・平安時代の包含層掘削中に八稜鏡が出土しました。当鏡は円形の界圏線内に草花と2羽の鳥の文様を有するもので、唐の鏡を模倣した瑞花双鳥紋八稜鏡です。出土を確認した時には掘削道具に当たって移動していましたが、地面に残存した形跡から、鏡面を上にして埋まっていたようです。周辺を精査しましたが、掘り込み等は検出できませんでした。当該地点は、10世紀後半~11世紀前半頃の土師器坏を伴う21号住居址の床面より30cm上層にあたり、当址が廃棄され、埋没する過程で、八稜鏡が埋納されたと推定されます。
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(国際文化財株式会社  土 任隆氏による報告から抜粋・引用〔「第46回 神奈川県遺跡調査・研究発表会」発表要旨 2024年〕)

そもそも、私は六ノ域遺跡の八稜鏡が歌人相模と係わるような資料だったら…という妄想を楽しんでいたので、”埋納された鏡”とすれば、その目的はどういうものだったのだろう?と思っていた。 

一千年前の夏、「館」が焼けたとすれば…。 - enonaiehon

六ノ域遺跡第20地点とは? - enonaiehon

六ノ域遺跡第20地点 - enonaiehon

今回、中通島で見かけたチラシの八花鏡が「報賽鏡」として埋納されたとすれば、六ノ域遺跡の八稜鏡も、その埋納目的として“報賽”の性格を持っていたのかもしれなかった。

しかし、六ノ域遺跡第20地点の出土状況は、あたかも打ち捨てられたかのような印象があった。

で、ここから私の突飛な妄想が始まる。

その妄想に係るのが『相模集』の次の二つの歌走湯権現奉納百首〔222~524〕の中の230の歌、そして”館の火災”〔1024年夏か?〕を経てのちに詠んだ〔1025年春か?〕433の歌)だ。
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230 若草を こめてしめたる 春の野に 我よりほかの すみれ摘ますな
433 もえまさる 焼け野の野辺の つぼすみれ 摘むひとたえず ありとこそ聞け
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この二つの歌で歌人相模は、東国下向に従った”妻”の自分をさしおいて、現地でも絶えず”愛人(すみれ)”を求める”夫”・大江公資の行状を走湯権現に訴えている。
そして、433の歌では、あえて「焼け野の野辺の」という歌詞を使うことによって、あたかも”館の火災”があったばかりの国府…かつて”大野”と呼ばれた地域…を想起させているように私には思えたのだ。 

【230・433の歌の個人的読み取り】

相模集-由無言5 「さてそのとし館の焼けにしかば」と「焼け野の野べのつぼすみれ」 - enonaiehonから抜粋
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以上の疑問や推測・想像をもとに(門外漢の恣意的な読み取り方かもしれないが)、相模と大江公資は別住まいであったとの仮定で、相模の230・433の歌を読み取ってみた。
230 若草を囲い込んだ春の野で(若い人を囲っている国司館のあたりで)、私とは別の菫の花を摘んだりさせないでほしいのです。
433 (国司館の建物が焼けましたが、その)燃え勝る焼け野の野辺に咲く坪菫を、今もまだ摘み続ける人がいると聞いているのですよ。
〔註〕上掲の233の歌の「若草を こめてしめたる 春の野にについての私の解釈は、あくまで素人の恣意的な読み取りであることを改めて付記しておきたい。
なお、230・433の歌について、『相模集全釈』(風間書房 1991年)では、次のような通釈となっている。
230:「私をとじこめて自分のものとしている春の野で、すみれを摘むような気持ちで他の女性に手をだすことを、夫にさせないようお願いします。
433:「野焼きをした野原に、ますます盛んに萌え出てくるつぼすみれの花を、ひっきりなしに摘む人がいると、うわさに聞いているのです。
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私の妄想は、六ノ域遺跡の八稜鏡が、歌人相模によって京から持ち込まれた品かもしれない…そして、本来ならば走湯権現のもとに奉納する”報賽”の品だったのかもしれない…というストーリーになっていった。
(つまり、走湯権現に祈った願いごとはついに成就しないまま、帰京の日を迎えることとなり、京から持ち込まれた八稜鏡は虚しく国府域内に打ち捨てられ、一千年の時を経て、六ノ域遺跡第20地点で発見される…というストーリーだ)

さらに私の妄想は暴走し、230・433の歌にこめられた歌人相模の想いを八稜鏡の文様にも結びつけようと、拙いトレース(下図①)も試みた。
(六ノ域遺跡の八稜鏡は、”鳳凰文”や”鴛鴦文”とは分類されずに”双鳥文”とされているけれど、もし”鴛鴦文”〔夫婦和合を象徴する文様〕の可能性が残っているならば、歌人相模の大江公資への想いと重なるのでは?と感じたためだ。)

結局、写真では文様の細部が読み取れず、”鴛鴦文”の可能性を確かめることはできなかったオシドリに特徴的な銀杏羽〔いちょうばね〕に似た形などを探そうとしたが把握できなかった。ただ、少なくとも尾羽の長い”鳳凰文”ではないと感じた)

また、歌人相模が百首を交わした走湯権現(現・伊豆山神社にも、”鳳凰文”の「瑞花双鳥八稜鏡」(径14.9㎝/11~12世紀)が残されているので、この鏡についても拙いトレース(下図②)を試みた。
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唐鏡の要素を鏡体や文様に取り入れた瑞花双鳥八稜鏡は、九世紀から十二世紀にかけて多く制作された。鈕を中心に向かい合う二羽の鳳凰を主文様として点対称に配する構図は、唐鏡の影響が強く見られるもので瑞花双鳥八稜鏡の中では古式といえるが、本品のように文様、また界圏を外形と同じ八稜形とする形式は、寛弘四年(一〇〇七)の刻銘がある金峯山経塚出土の品重要文化財、鏡面は胎蔵界五仏鏡像、東京藝術大学所蔵)に確認でき、その制作年代を類推することができる。(田澤)
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(田澤梓氏による展示解説から抜粋・引用〔『伊豆山神社の歴史と美術』奈良国立美術館 2016年〕)

六ノ域遺跡のものより保存状態が良いためか、精緻で美しい文様だと感じた(もしかすると、こちらの鏡こそが、歌人相模によって百首とともに奉納された品なのかも?という思いもよぎった)

①「瑞花双鳥文八稜鏡」の文様の粗描図(六ノ域遺跡第20地点出土/径111㎜/11世紀前半):外区・内区の文様が、伊豆山神社の「瑞花双鳥八稜鏡」に比べ簡素化されていること、界圏が円形であることなどは、伊豆山神社のものより新しいことを示すのだろうか? それとも格式や用途の違いなのだろうか?

       

【参考】「双鳥文」の片方の粗描図         【参考】オシドリが飛び立つようす
                            (静岡県伊東市 松川湖 2018年10月)
                 

 

②「瑞花双鳥八稜鏡」伊豆山神社の文様の粗描図

それにしても、六ノ域遺跡で眠っていた11世紀前半の鏡が、一千年後に掘削道具に当たって発見されるとは…と思わずにいられない。
いつか、この八稜鏡について新しい知見に出会う日まで、ここで書き留めた荒唐無稽な妄想を楽しもうと思う。

【参考】チラシに載っていた「湖州八花鏡」
長崎県上五島町 雄嶽日枝神社



 

渡岸寺の小さな十一面観音様。

 

先週末、足腰の治療中の身ながら、たくさん歩き回った。

23日の午後、小田原でわずかな時間ではあったけれど、千代仲ノ町・千代北町遺跡などの調査発表を聴くことができた。
(久しぶりの小田原…お堀端通りには人力車が留まり、人々がにぎやかに行き交っていた。通りの北の先には丹沢の山容が顔をのぞかせていて、城下町・宿場町であった小田原の新しい魅力を感じた。いいなぁ…街の中心にお城とお濠があって…)

24日の午前、博物館の考古学分野の行事として、多くの人々と一緒に平塚市の市街地の遺跡を巡り歩いた。中心となるのは古墳時代から奈良・平安時代の遺跡で、平塚の地がもっとも畿内の政権と繋がり、多彩な歴史を残した時代の遺跡だった。
(ただ、残念ながら開発と引き換えに真土大塚山古墳も相模国庁跡と推定される遺跡も消滅した今、ひたすら開発跡地の現状を確かめることになるのだけれど…)

同じ日の午後は東京に向かい、初めて半蔵門ミュージアムを訪ねた。
洞窟寺院のように静かな空間で「小川晴暘と飛鳥園 一〇〇年の旅」の仏様たちを巡り歩いた。
先だって奈良で再拝した聖林寺の十一面観音像を撮影した作品にも出会えた。そして、撮影した小川光三氏の視点(ことに側面から切り取ろうとした視点)に強く共感した。また被写体となったさまざまな仏様の像容を眺めるなかで、素晴らしい写真作品には、素晴らしい仏像の作用のもとに結晶してゆく”眼”が存在するように感じた。
さらに常設展示場では、髷を美しく結い上げた大日如来坐像にもお目にかかった。

すでに夕方近くとなり、疲れた身体と癒された心がない交ぜになって、半ば放心状態になっていた。夢見心地のまま、休日の東京駅の雑踏を通り抜け、日本橋の東京長浜観音堂にたどり着いた。

上野・不忍池を経て日本橋に移った小さな観音堂は、一区切りとなる時期を迎えていた。

思えば、不忍池観音堂を最初に訪れたのも、渡岸寺の観音様とのゆかりを感じたからだったと思う。そして今、渡岸寺の小さな十一面観音様に巡り逢えたことも、一つのご縁なのかもしれなかった。

その唇の紅色、精緻な造形と装飾に見入りながら、このような愛らしい観音様が、あの渡岸寺観音堂にいらっしゃったのか…と不思議な気持ちになった。

足腰に疼き始めた痛みを忘れて、名残り惜しい気持ち、感謝の気持ち、満たされた気持ちで、東京の小さな観音堂をあとにした。

歩き疲れて癒されて、良い休日だった。

 

【小田原で:お堀端通りから見る丹沢の山容】

 

【平塚の市街地で】
 左:「古代東海道 駅路跡」(セイユー敷地内)の解説板
中央:「真土大塚山古墳」付近の標柱神明社境内)
 右:「稲荷前A遺跡」の解説板

 

【東京長浜観音堂で】
チラシといただいたカード

カード裏の解説文と”截金(きりかね)”の説明パネル:
解説文のなかの「拭き漆」について、観音堂の方に教えていただいた。仏像の仕上げには、彩色や箔を施したり、素地のままだったりのほかに、こうした「拭き漆」という”ナチュラルメイク”のような手法があることを知った。

 

醫王山 神武寺へ。

 

19日朝、急な寒さに薄着を後悔しつつ、東逗子駅から神武寺に向かった。去年の夏は裏参道を歩いたので、今回は表参道を選んだ。趣きのある参道の竹樷を抜ける風は沢の音のように聴こえ、思わず耳を澄ませてしまう。

夏の裏参道ではほとんど人に出会わなかったけれど、今回は細く小暗い坂道で、散歩の人や参拝する人、鷹取山に向かう人などに数多く出会った。

滑りやすそうな路面と階段に気をつけながら、その凝灰岩の地層を横目で眺めて上ってゆく。しばらくすると道は緩やかになり、あっけなく山門に着いた。いよいよ神武寺の十一面観音像にお目にかかれるのだ。

秋の明るい光のなかの薬師堂…初めて訪れた去年の印象が”銀閣寺”とすれば、今回のそれは”金閣寺”だろうか…お寺とはこれほど表情を変えるものなのか。 

参拝する人々は、紅白の布紐に触れながら薬師堂の中へと導かれてゆく。
(そういえば、先だっての京都・六波羅蜜寺でも、集まった人々は次々と結縁の紐に触れて願いごとを祈ったのだ。)

厨子の中に座す薬師如来様は彫眼で、穏やかな親しみやすい表情だった(この仏様の顔の横幅に合わせるように、清凉寺式の髪型を平たく押し潰したような印象で、どこか帽子をかぶっているようにも見えたりする。薬師様のそばに、四天王や十二神将が賑やかにそろっているのも頼もしい)

続いて、薬師堂から崖下の客殿に向かう。いよいよだ…。
細い切通しを抜けると庭の上に切り抜いたような空が広がる切通しの岩壁にはイワタバコの葉が茂り、庭の木の幹にはセッコクの花が咲いていた。季節外れの花に出会えるのは嬉しいような、困ったことのような…)

客殿の十一面観音像のお顔を見上げ、どこかで拝したことがあるような印象を持った。そして、先だって巡った近江・畿内の観音様たちとは時代が異なる(下る)こと、造像にあたる仏師の在り方もおのずと異なるであろうことを実感した。

 

【左】さざなみ状の凝灰岩の道      【右】バウムクーヘンのような地層

薬師堂(左:2024年11月19日 右:2023年7月8日)
この日は紅白の布紐をたどって薬師様を拝した。思わず「身体健全」を願った(今となっては、なぜ若い頃の自分が神仏に祈ることに抵抗があったのか、良く分からなくなっている)

 

鎌倉後期の十一面観音坐像・釈迦如来坐像などが祀られている客殿:
寄棟造りの屋根のてっぺんに載る大きな宝珠が印象的だった。

【左】客殿前に並ぶ平たくて丸い石:昔の建物の礎石だろうかと、つい写真を…。
【右】「開創一千三百年 記念大開帳」のチラシと「特別参拝券」:
十一面観世音菩薩坐像の解説文には「明治初年の神仏分離の際、鎌倉荏柄天神社から遷座したと伝わる像。この度、逗子市の重要文化財に指定されました。」とある。

 

薬師堂前の楼門の天井に描かれた四神図:
昨夏は「白虎」・「朱鳥」だけを写して帰ってしまった。今回改めて「青龍」・「玄武」も撮影した(この絵と同じように、薬師堂内部の程よく古色が加わった装飾も美しかった)

 

帰り道の眺め:
沼間から相模湾へと流れ込む田越川の古代の景観を想い描けそうな眺めだった。源義朝の時代、頼朝の時代、『吾妻鑑』が成立した時代…この場所からの眺めも、大きく移り変わって現在に至っているのだ。

 

~参拝後に~

市指定の史跡「みろくやぐら」、そして「こんぴら山やぐら群」に立ち寄った。
「みろくやぐら」には中原光氏の記銘のある石像弥勒菩薩坐像)が納められている。
(中原光氏という舞楽師が活躍した時代、舞楽面はどのような人々によって作られたのだろう。大陸や朝鮮半島から伝わったという舞楽面の作り手の系譜を遡った時、10世紀の東国の作り手にまで、たどり着いたりするだろうか。もしたどり着くならば、10世紀の作ともされる伊豆山男神立像の頭部前面は、そうした作り手によって造形された可能性はあるだろうか…「みろくやぐら」の前で、私の妄想が広がっていった。)

 

「みろくやぐら」の説明板

 

「こんぴら山やぐら群」の説明板

細い山道の片側の壁に多くのやぐらが並んでいた。どれも今は壁龕(へきがん)状に削られ、草に覆い隠されているものもあって物寂しい姿だ。
帰宅後、「神武寺境内図」(「神奈川縣三浦郡田越村沼間 神之嶽 醫王山神武寺薬師如来境内全圖」明治26年のなかで、神武寺本堂(現在の客殿の位置か?)の横の道(現在の表参道か?)に「池子道」の名が記されていることを知る。
元の時代の緑釉長頸瓶や荏柄天神社の十一面観音坐像が、鎌倉から「池子道」などのルートを経て神武寺へと運ばれてくる情景を想像する(そういえば、藤井寺市・道明寺の十一面観音様も、菅原道真公が自ら刻まれたもの…と伝えられていた)
客殿の観音様がもともとの場所を離れ、この神武寺へと移られた背景は分からないけれど、今も大切に守られ祀られていることは確かなことだった。24日までの御開帳に多くの方々が訪れ、心を満たされることだろうと思う。

 

どこからか「さようなら」が。

 

今日19日、横須賀線の電車の中で谷川俊太郎さんが亡くなったことを知った。

はっと思い、すぐにそのまま受けとめた。

17日の「どこからか言葉が」朝日新聞を読んだ人は、きっと同じように受けとめたのでは、と思う。

月に一度、谷川さんの詩が載る欄を読む。

17日も読んだ。そして、いつもと違う谷川さんのつぶやきを聴いたのだ。

「どこからか言葉が」…その欄はいつも窓のように開かれていた。
その窓は透明な箱のような空間からこちらに向かって開かれ、そこに入ると、谷川さんが見た言葉の形が、くっきり見えるような気持ちになった。

17日に聴いたつぶやきは、今いっそうくっきり見える。そして透明な箱の窓はもう開くことがないのか…さびしいことばかりだ。

 

19日、逗子の神武寺で咲いていたセッコクの花:”感謝を神に、世界に、宇宙に…”

追記:今朝20日の朝日紙を読み、谷川俊太郎さんが最後につぶやいた言葉は(「さようなら」ではなく、「さよなら」でもなく)「じゃあね」なのかもしれないと思った。「じゃあね じゃあね…」と。

16日夜、照る月を文中に見る。

 

16日夜、”道長が見た月”は平塚の空には無かった。よほど雲は厚かったか…。

そのかわりに、読みさしの『十一面観音巡礼』白洲正子 新潮社)のなかで、”姨捨山に照る月”を見た。白洲正子さんが拝した知識寺千曲市の十一面観音像の姿を想い描きながら。

その知識寺の仏様は”立木仏”というものらしい。
月光を浴びた冠着(かむりきやま)を背にする知識寺。そのお堂のなかには立木から顕れた美しい仏様がたたずみ、肌には鑿の跡が残っている。
平安時代、満月の光に照らされた大きなこけしのようなお像を、神のように畏れ多く拝した村人もいたのだろうなぁ…と想像した。

(ところで実資は、道長が詠んだという”望月の歌”を、なぜ日記に記したのだろう。少なくとも、道長の歌に感じ入って書き留めたわけではないと思うのだけれど…。
実資という人については、”(歌人)相模を懐抱して秀歌を案ずるような大江公資を大外記にするのはどうだろうか…?”というような意見を述べたとされる人物だけに、実務家・皮肉屋といったイメージを抱いてきた。そのためか、道長の歌を日記に書き残した実資の本意は?と、つい無粋な疑問も浮かんでくるのだ。
妄想の追記:かつて屏風歌を詠むことを断わり、再び返歌を詠まずにすませた実資…実は、”和歌嫌い”だったのかもしれない。そして、豊かな才能をもてはやされて時流に乗る人々を冷ややかに見ていたのかもしれない。とはいえ、”歌を詠もうとしない興覚めな存在”であることに多少の気おくれもあって、自分の矜持を保つためにも、宴の次第を書き留めておくことにしたのではないだろうか?)

道長が見た月”が雲の奥に隠れた夜、白洲正子さんとともに、知識寺のほかにも、京都・月輪寺の仏様も訪ねた。
そして、『今夜、”道長が見た月”を眺めた人はどこかにいるのかなぁ…』などと思いながら眠りについたのだった。 

 

図書館で借りてきた『十一面観音巡礼』白洲正子 新潮社)



11月13日の月。

12日の夕方、買い物の帰り道で十三夜のような月を見た。
人魚姫の公園で携帯を掲げ、遠い月を写してみた。

13日の夕食後、ベランダに出て空を見上げると、しきりに雲が流れ、そのなかに十三夜らしい月が浮かんでいた。

雲あってこその月…それも十三夜は美しいなぁ…。
(良い月を眺めたというのに、ベランダに出た数分の間に11月の蚊が部屋に入り込み、真夜中に顔を刺されて安眠を妨げられた。11月だと油断して、戸を開け放したことをちょっと後悔した夜。)

 

11月12日と13日の月

 

 

十一面観音様を訪ねて。

夏の記憶が薄れはじめた11月、十一面観音像を巡る旅に出かけた。
(国宝の七体の十一面観音像を巡るという魅力的な企画のツアーだった。一人旅の緊張や日々のルーティンから解放され、訪ねた仏様を臆することなく見つめ、その表情、姿の印象を長く心に残したいと願った二日間だった。)

七体の仏様たちに出会い、そのつど圧倒され、心を奪われる。感動が次々と上書きされてしまいそうで不安に感じた。
濃密な二日間を経て家の玄関にたどり着いた時、自分を浦島太郎のように感じた。今はまだ、目をつぶれば、仄暗いお堂や収蔵室で見つめた仏様たちのそばに行くことができる。それもやがて日常の波に洗われて、かすかな記憶の彼方に遠のいてしまうのだろう。
今回の旅の思い出のよすがとして、いくつかの風景を残しておきたい。

 

~渡岸寺観音堂向源寺滋賀県長浜市高月町

▼2024年11月の渡岸寺観音堂向源寺と12年前の姿

2012年に訪ねた渡岸寺観音堂…その十一面観音像を初めて眼にして打ちのめされた。その時の記憶は今も残り続けている。
ーー眼の前の像からは、壮大でエキゾチックな空気が漂っていた。ためつすがめつ眺めまわさないではいられなかった。仏像ではない別の何か? 異国の彫刻家の手になる完璧な造形?
法隆寺百済観音像が、まさしく”神像”として私の前に顕現したのに対し、渡岸寺の十一面観音像は、”異国の完璧な芸術彫刻”としてそこに存在した。
仏様として拝するには、余りに美しさが際立っている。異様に重厚な頭上面でさえ、宝冠のようにまとまり、均衡を保っている。ましてや、全身に美しく流れる音楽的な(?)曲線、両性具有の肉体の妖しさ、見知らぬ異国の感性をうかがわせる思索的な面差し…。
もし法隆寺金堂壁画のような平面におさまっていたならば、あの観音菩薩勢至菩薩のような仏性をまとうのかもしれない。しかし、いったん複雑な立体造形として私たちの視線にさらされた瞬間、神秘的な仏性は消えて、蠱惑的な造形美にすり替わってしまう。私は今、そのような運命のもとに誕生した”仏像ではない何ものか”を観ているのかもしれないーー
そんなふうに、私の頭はぐるぐると混乱するばかりなのだ。

観音堂を出たあとに眺め渡した湖北の山並み

 

六波羅蜜寺京都市東山区轆轤町

次の御開帳には再訪できないのでは?という思いもあり、遠くからそのお顔をありがたく拝見した。
帰宅後、手元の仏様の資料の中から、六波羅蜜寺像に似通う写真を探してみると、法界寺の阿弥陀如来像と印象が重なった(やはり、できれば全身のお姿も拝見したかったと思う)
多くの人々が行き交う境内の一角に「阿古屋塚」があり、その右手の石柱に「奉納 五代目 坂東玉三郎」と記されていた。こうしたところで当代玉三郎の名と出会ったことも楽しかった。 

辰年御開帳のポスターと境内の「阿古屋塚」

 

~道明寺大阪府藤井寺市道明寺)

初めて訪ねたお寺の参道は東高野街道に面していた。
その細いアプローチを経て境内に入る。案内を待つ間、「ほしい(糒)」を使った椿餅を買い求めた(私の好きな和菓子は、この”道明寺”と”州浜”だ)
やがて堂内に招かれ、尼僧様のお話をうかがった。
拝見した仏様は、きっちりと正面を見つめ、何か強い意志を秘めているような揺るぎない姿で直立されていた。菅原道真公ゆかりのお寺であることを教えていただき、仏様の峻厳なたたずまいは、そのまま道真公のイメージにもつながりそうに感じられた。
(堂内奥の聖徳太子孝養像も、その表情の厳しさで眼を引く。尼僧様はこの聖徳太子像について、「夜、このお堂に独りで入るのはためらわれるほど…」と真面目に語っておられた。)
旅から帰って、境内で買い求めた「椿餅」という”道明寺”を味わいながら、私たちを見送ってくださった尼僧様の笑顔と明るい声を思い出す(あらためて桜の時期にゆっくり道明寺周辺を歩いてみたいと思った)

▼道明寺山門の参道と境内のキリン像

 

聖林寺奈良県桜井市

3年前のコロナ禍のさなかに上野で拝した仏様に、今回は多武峰に近い小さな観音堂で再びお目にかかった。
暗い控室から、まばゆい光に溢れたカプセルのような収蔵庫内に入る。仏様を横から見上げた時、その堂々とした厚み、ボリューム感に改めて圧倒された。
また横顔の鼻筋の美しさにも気がついた。
(『古寺辿暦』という本のなかで、町田甲一氏が「…獅子舞の出来のわるい獅子頭の鼻を連想させるような、無神経なつくり…」とまで記していることについて、私はやはり納得がゆかないのだった。)
また、その後ろ姿の肩甲骨あたりの盛り上がりは、今回も『なぜ、こうしたラインになったのだろう?』と感じた(渡岸寺の十一面観音像のような自然なラインではないことには、何か理由があるのだろうか?)
ぐるりと正面側に戻って、その肩や腕、胴部のシルエットを眺め直す。
両肩の張りを隠すような天衣のライン、そして胸から胴にかけてハート形(♡)に絞られるラインが浮き上がってくる。
つまり、天衣に覆われた両肩・両腕によって ∩ 字状に空間が切り取られ、その隙間に引き締まった胴部がはめ込まれる形になっている。
肩・腕のボリューム感がいっそう際立つような造形が、あえて意図されたものであるならば、そのアメフトの防具を思わせるような(?)肩の重厚さは何を表徴しているのだろうか。渡岸寺像に比べ、聖林寺像はなぜか難解な存在のままだ。

聖林寺境内から眺める三輪山の山並み

 

室生寺奈良県宇陀市室生)

▼季節外れのシャクナゲの花(仁王門前で)と蕾のままのシャクナゲ(鎧坂で)

五重塔下のお地蔵様          ▼五重塔

今春4月に初めて拝した仏様に、半年後、再び逢うことができるとは…。
美しく古色を帯びた金堂から安全な宝物殿へと移られた仏様は、やはり、少し居心地が悪そうに立っていらっしゃった(小じんまりとしたお堂のなかで人々の祈りを一身に受け留める他の六体の仏様のように、できることなら、金堂のなかでお目にかかりたかったと思う)
わずかに開くような朱い唇や西洋人形のような頬と、その神秘的な眼差しとの齟齬が強く印象に残る仏様だ。中庸を保つ自然な姿形に、どこかお地蔵様に通じるものを感じた。

 

法華寺奈良県奈良市法華寺町)

いつも写真を眺めながら、この仏様の不思議な雰囲気はどこから来るのだろう…と思ってきた。エキゾチックな青年のような容貌と女性的な身体、長い髪、そして異様に長い右腕…渡岸寺の十一面観音像にも通じる異国の雰囲気を漂わせたこの仏様が、なぜ光明皇后の姿に重ねて語り継がれているのだろう…と不思議だった。
しかし今回、ひざまづきながら初めてその姿を拝した時、これまでの疑問はすっかりどこかに消えてしまった。同じツァーの方と顔を見合わせて「素晴らしいですねぇ…」とうなづき合った。
疑問の答えは見つからないけれど、「法華滅罪之寺」のお寺で素直に仏様を拝することができたことが嬉しかった。

法華寺の案内板と庭園に咲くキキョウの花:

 

~観音寺京都府京田辺市普賢寺下大門)

とうとう最後の七つ目のお寺にたどり着く。
車道から農地を隔ててそのお寺のなつかしい姿を確かめた途端、何ともいえない気持ちになった。
2001年に初めて、三山木駅から歩いて観音寺を訪ねたのだった。その時にお話をうかがったご住職はすでに亡くなられたことを知った。あぁ、それほどに年月が流れてしまったのか…さまざまな思いがよぎる。
私たちの時間の流れとは別の時間の流れのなかで、仏様は変わらずにお堂に住まわれている。これからも変わらずに南山城の地にいらっしゃるのだ。なんとありがたいことだろう…いつまでもそうあってほしい。

▼現在の大御堂観音寺の遠景と2001年当時の参道           

▼拝観後に見上げた空には旅の終わりを告げるような月が。