enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

カタツムリとトンボ(平塚海岸の林で)

 

5月後半、思いがけない場所で、かなりの数のカタツムリの姿を目にした。

子どもの頃は、生垣のどこかに潜んでいたカタツムリだったけれど、最近ではまったく見かけることがなかった。(ちなみに、身近な場所からカタツムリの姿が消えていることに気づいたのは、市博物館が市民に”カタツムリ調査”を呼びかけていることを知ってからのことだった。私の場合、実際に、散歩の折にカタツムリを探し始めてから半年以上、一つも見つけることができなかった。)

なので、ふと歩道脇に小ぶりのカタツムリを、しかもいくつも見つけた時は、『ワッ! こんなところに?』と嬉しくなった。(ただ、角を出したカタツムリらしい姿ではなかったのが残念だった。)

それにしても、私たちの暮らしは、カタツムリが身近だった環境から、なぜこんなにも遠ざかってしまったのだろう? 

 

f:id:vgeruda:20200529230255j:plainオナジマイマイ?(5月25日):
昔なら、つやつやとしたマサキなどの葉陰で見かけたのに、こうした日なたのフェンスなどの上では這いにくかろうに、と思う。

 

f:id:vgeruda:20200529230349j:plainショウジョウトンボ(5月28日):
近くには池など無いけれど…どこからやってきたのか? そういえば、アキアカネも海岸通りの空をピュンピュン群れ飛ぶのだった…。

 

 

2020年5月に思う。

f:id:vgeruda:20200524160037j:plain 浜辺で暮らす猫

 

2020年5月もそろそろ終わってゆく。
人魚姫の公園の色とりどりの薔薇たちも、重く重なり合う花びらをはらはらと散らしはじめている。早くも、次の季節へ向かう兆しを見せている。

人間もあんなふうに、心や肉体や生活を覆う皮膜を季節ごとにはらはらと振るい落とせるのなら、どんなに軽やかで気持ち良い人生だろうといつも思う。

一方、コロナ禍に襲われた2020年春~初夏の社会は、否応なしに新たな時代へと押し出されてゆくようだ。そして、その行く先の見えない新しい流れとは別に、一つの流れの道筋も見えてきた。ようやく、その澱んだ道筋を俯瞰して捉え得る時期に来たのだと気づかされた。

それは、現政権によって続けられてきた政治的パワーハラスメント、その理不尽な振る舞いによって社会に生じた無数の傷跡が、今や人々の目に網羅的な形で見えるようになった…そういう流れの道筋だ。

そうなのだ。
私(たち?)は今こそ覚醒し、その流れと訣別し、一人ひとりそれぞれが、新たな道を模索するべき時期を迎えているのではないか。

私はといえば、昨夕の報道番組の冒頭での、痛烈な皮肉を込めたキャスターの言葉に改めて気づかされたのだ。

「”無意味なお詫びの繰り返し”というギネスブックの記録はまだありません。」

そうなのだ。
これまでの私(たち?)の社会は、あたかもDVにも似た構造のなかで、現政権による政治的な嫌がらせにさらされ、政治への信頼を踏みにじられ続けてきた…そのような関係性のなかで力なくもがき続けてきたと気づかされたのだ。

この数年間、私(たち?)の抗議と抵抗の叫び声は、そのつど、”無意味なお詫び”によって無効化され、そのつど、虚偽と隠蔽の振る舞いによって、未来への希望と公正な社会の姿を見失い、無力感と怒りに満ちた空間へと押し戻されてきたのだった。

そうなのだ。
理不尽で不可解な政治の流れを阻止するための突破口は今回こそ見つかる。新しい社会への出口は近づいている。

ルイ14世」的とも例えられた現政権の振る舞いを受忍し隷属する日々から脱出し、コロナとの共生の道を探りつつ、一人ひとり、それぞれの新しい生活へと、勇気を出して一歩を踏み出す機会がとうとう巡ってきたのだ…そう信じ始めている2020年5月。

 

【5月の季節のなかで】

f:id:vgeruda:20200524160109j:plain
f:id:vgeruda:20200524160126j:plain

 コマツヨイグサ?            トキワツユクサ

f:id:vgeruda:20200524160150j:plain
f:id:vgeruda:20200524160203j:plain

 ネズミモチ?              ハコネウツギ

 

 

 

図書館へ出かけるということ。

 

先週半ばから図書館の予約受付が再開された。嬉しいニュースだった。

思えば十数年前頃からだったろうか。
身近な図書館・博物館・美術館などの文化施設が、財政・経済効率上のさまざまな締め付けのもとに、本来の運営に発揮すべきエネルギーを消耗し、疲弊してゆくのではないかと感じるようになった。

さらに追い打ちをかけるように、今回のコロナ禍は、地域の文化施設が積み上げてきた地道な努力や活動を停滞させることとなった。

ただ、その反面、こうした文化事業の公共的な役割、それらが存在し持続することの意味合い…その存在の場が失われたり、その存在の役割が変質しては困るのだということ…を、人々に思い起こさせるきっかけになったのかもしれなかった。

どこかで、もう元通りの生活には戻れないのかも…という漠とした不安は消えないけれど、とにかく、予約した本を受け取りに図書館に出かけるという生活ルートが、息を吹き返した。こうして、よどんだ生活のなかで、少しずつ、息を吹き返すことが増えてゆきますように。

 

【人魚姫の公園で】

f:id:vgeruda:20200518220141j:plain

f:id:vgeruda:20200518220201j:plain



 

 

 

”呪符木簡なるもの”にすがる2020年5月。

 

検察庁法改正案 森法相が答弁へ きょう衆院委員会 採決のかまえ」
朝日新聞 2020年5月15日 朝刊)
_________________________________

15日の朝刊1面の記事を眼にして苛立つ。
午後の内閣委員会の中継をネット視聴して、一人虚しくヤジを飛ばすくらいか…と思うと、本当に情けない。何もできない。何もできないから苛立つ。

先日、”呪符木簡なるもの”を二枚作った。手のひらに載るほどの小さなお札の形になった。
当然、古代においての宗教的教義に基づくことなど、叶うわけもない。
ただ、それらしく「急々如律令」の文字を真似てみただけの”まやかしモノ”に過ぎない。
それでも、筆ペンで書いた文字は、記すそばから不気味に滲んだ。
まやかしモノながらも、拙い文字に力が宿ったようにも見え、少しだけ空恐ろしい気もした。

二つのお札に記した願いの一つは、この数年間の鬱屈した思いを端的に表現したものだ(デモや集会で、何度も口にした言葉であっても、”呪符木簡なるもの”に、文字の形で記すまでになるとは…)。

これまでの人生の中で、テルテル坊主や七夕の短冊を作ったことは何度もあったけれど、この時期、唐突に”呪符木簡なるもの”を作りたい…などという奇異な欲望が芽生えたのは、やはり”2020年の今”という特異な状況が、自分の衰えた知力・精神力をさらに弱らせてしまったからか。

果たして、”呪符木簡なるもの”に託された暗い情念、負の欲望は聞き届けられるのだろうか? 
それとも”呪い”は、我が身にはね返ってくるのだろうか? 
その答えはいつ出るだろうか?

”Foyle's War ”を見る。

 

巣ごもり暮らしが続き、5月となった。
この数日、ネットで公開中の『刑事フォイル』というドラマに魅入られ、うつつを抜かしている。

非日常的な2020年の日本から、さらに非日常的な1940年代のイギリス・ヘイスティングスへと、PC画面の扉から入り込んで90分余り、まさに時を忘れて過ごすようになった。
(ドラマに没入して見終わった瞬間、自分が今、朝・昼・晩のどの時間帯に存在しているのか分からず、戸惑う。あたりを見回し、ようやく『そうだった…』と納得する。)

このドラマシリーズに、それほど引き込まれるのはなぜだろう?

1940年代のヘイスティングスの人々の暮らしへの関心。
戦時下の人々の欲望と人間関係が生み出す事件の数々についての好奇心。
フォイルという警視正が体現する職業的な倫理観、公正さへの敬意。
その鋭敏な思考力、抑制された表情に滲む、繊細な人間性への憧れ。
彼と係わる周辺の人々の振る舞い、考え方、揺れ動く人格への共感や反感。
そして、第二次世界大戦下の欧米諸国の緊迫した情勢、複雑な歴史・社会に根差す対立構造、階級のそれぞれに根差す無知と偏見、揺るぎない信念や道徳観に根差す憎悪感情…それらに対する恐怖や違和感。

ドラマは私の脳味噌溜まりをかきまわしつつ、毎回鮮やかに展開してゆくのだった。

2020年5月の日本。
私は、1940年代のイギリスを舞台とする刑事ドラマという、何重にも非日常的な世界の片隅で息を潜め、眼を凝らし、緻密な作りごとの一部始終を追いかけてゆく。そして、全てを見終わり、再び、”現実のような世界”に引き戻されて茫然となる。

果たして、いつの日か、この巣ごもり暮らしから抜け出す時が来たとして、私はいったい、どのような現実世界に戻ることができるのだろう…そんな不安もある5月なのだった。

 

≪6日に視聴した『刑事フォイル2』(第4話「隠れ家」)で印象に残ったシーンがあった。それは、ロンドン警視庁のコリアー警部がフォイルの部下ミルナー巡査部長と並んで歩きながら語りかける場面。
話題はドイツ軍による毎晩のようなロンドン空襲の被害のひどさに及ぶ。
「…次はどこが狙われるか分かったもんじゃない。だが不思議なことがある。何があっても翌日には皆仕事に出かける。瓦礫をかき分けて。…」
私はその時、ロンドンの労働者が毎朝黙々と職場に向かうようすを思い浮かべた。リアルな形でストンと腑に落ちた。同じ風景が日本でも見られたし、今も見られるのだと思った。
『刑事フォイル』はシリーズが進むにつれ、しだいに作りこんだストーリーへと変化しているように思う。それでも、こうした細部の何気ない会話や人物の微妙な表情を通して、その人物像や犯罪が抱える時代背景をリアルにのぞかせる瞬間が随所に散りばめられている。そのことで、作品世界の虚実のバランスが保たれているように感じる。
まさに、原題は”Foyle's War ”なのだ。
非日常と日常が並行する世界に生きる仮構上の人々を、今の私は不思議なほど身近に感じる。
巣ごもり暮らしのなかで、今や、生きているという確かな実体感覚を失いつつある私に代わって、海外ドラマのなかの登場人物たちが、リアルな時間を生きてくれているようにさえ感じるとは。
ふわふわとたよりなく
浮遊する私の意識をしばし覚醒させてくれるドラマ…大丈夫だろうか、このまま見続けて。≫

 

f:id:vgeruda:20200506201952j:plain5月5日の海:黒く、重そうな流木。

 

f:id:vgeruda:20200506202014j:plain波打ち際のシギ(キョウジョシギ?)の群れ:美しい啼き声とともに降り立った。その姿を明らかにできるほどには近寄れなかった。

 

f:id:vgeruda:20200506202040j:plain引き波:鉛色の空のわずかな光を反射して、銀の砂を流したような輝きを発する。

 

 

 

 

それでも。

 

3月初旬からの巣ごもり暮らし…ほぼ2か月経ったのか…。

体調の悪い日はあっても、日常生活のルーティンをこなすことができているのはありがたいことに違いない。
望まない。やり過ごす。
自分にかまけているだけの暮らしだ。

しかし、日々の報道に接するなかで、これまで通りの暮らしが立ち行かなくなっている人が増え始めていること、人々にとって、この先の暮らしの行方や人生の道筋が見えにくくなっていることに、やはり不安と焦燥を感じないではいられない。

この漠とした不安感・焦燥感は、9年前の地震津波原発事故のあとに続いた、大きな喪失感とは別のものだ。
2011年のあの時は、怖かった。悲しかった。
私も何かしなくていけない、といたたまれなかった。
そして、武者震いするような力が湧きあがった。

けれど、2020年の今は、なぜか虚しく、無力感に流されるだけだ。
年取ったから。堕落し続けているから。そうなのかもしれない。

 

ネットで映画を見る。
買い物の帰りに小さな公園で息抜きする。
そんな時間潰しが、2011年の時より疚しいような気もする。

それでも、日々を生きて、繰り返し生活してゆかなければならない。
そんな2020年の今。

 

【人魚姫の公園で】

f:id:vgeruda:20200430162428j:plain
4月29日のヤマトシジミ:翅が傷んでいるけれど、小さく輝く。

f:id:vgeruda:20200430162720j:plain
f:id:vgeruda:20200430162742j:plain

4月29日のバラ

f:id:vgeruda:20200430162852j:plain

4月29日のスミレ

 

 

3月~4月の土曜日の数字を眺めてみる。

 

f:id:vgeruda:20200425214855j:plain

4月24日の平塚海岸入り口で

思えば、今春3月の初め、草津温泉に出かけたのが最後の遠出だった。

その後の巣ごもり暮らしのなかで、”国内の新型コロナウイルス感染者”の新聞記事(都道府県別感染者数・死者数などの一覧表)”を毎日切り抜くようになった。

そして、じきに5月を迎えようとする今、溜まった切り抜き記事の数値の動きを、土曜日毎で眺め直している(同じように再びいつの日か、『朝日新聞』のこれらの切り抜き記事を眺め直す時がくるように思う)。

【『朝日新聞』のこれらの記事の数値は、「都道府県の発表」に基づき、また「総数には厚労省の発表も含む」とされている。また4月18日以降、感染者数にクルーズ船の乗客を含めないように変更されている。】

_____________________

       国内感染者総数       死者

3月7日(土)    1,113                    12
3月14日(土)  1,422          28
3月21日(土)  1,727          43
3月28日(土)  2,231          62
4月4日(土)    3,843          88
4月11日(土)  6,898           133
4月18日(土) 10,569             207
4月25日(土)    13,576                               358
_____________________

 

このように、3月~4月の8回の土曜日の数字の動きを大まかにとらえれば、感染者総数は約12倍に、死者は約30倍に、と桁違いに増えていることになる(4月18日以降、データの採り方が変更されているので、あくまでも大まかな動きなのだけれど)。

市中感染の広がりが心配な今、これから5月、6月と、土曜日毎の数字を再びふり返った時、その数値はどのような動きを示しているのだろうか、と思う。

そして、この2020年という特異な年を、私たちが改めてきちんとふり返るようになるまで、どれだけの日々が必要なのだろうか、と思う。

【追記】今朝(26日)になって、表下の文章が途中で脱落していることに気がつき、追加・修正しました。

*なお、今朝閲覧したジョンズ・ホプキンス大学 HP の「 COVID‐19‐Map 」 によれば、2020年4月26日午前現在の数値は次のようになっている。
(日本にほぼ近い確認例を示すメキシコ・チリの数値も並べてみた。)

       確認例      死者

メキシコ   13,842      1305
日本     13,231        360
チリ                12,858                       181