enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

2012.4.29

午後、散歩に出かけた。外出するために吸入器を使うのは久しぶりだった。不思議な気持ちだ。今また吸入器を使うようになった自分がなぜかなつかしい。子供の頃、眠れない夜に、握った吸入器をぎりぎりまで使うまいと、椅子に座って過ごした長い時間。その一…

歌人相模との出会い

最近出逢ったばかりの歌人相模と大江公資。彼らは私にとって歴史上の人物名にとどまらない、身近な人々になってきたように思う。これまで、古い和歌のなかの情景に心惹かれることはあっても、その歌を詠んだ人の心にまで入り込むことはなかった。今は、走湯…

相模国府と「八幡宮」

2012.4.24 【11世紀代の八幡宮の位置を探る】 歌人相模の道から外れ、脇道で迷っている。現・平塚八幡宮の旧位置について、「四之宮・東八幡・西八幡」とする説が気になりウロウロする。八幡宮の旧位置が11世紀代の相模国府の位置と係わるのではないかという…

2012.4.23

鉛色の空に美しい花が浮かんでいた。 見たことのない花に思えた。 夕方の細い雨の向こうに。 それは咲き終わった木蓮の花だった。 散り落ちるのを思いあぐねているように 首をかしげていた。 春はもう通り過ぎたのかと。

相模国府所在地の空白(2)

2012.4.21 【相模国庁所在地の空白を埋めるために】 机上の妄想を続けている。 11世紀前半、大江公資が歌人相模と別れ、妻(大江広経の母)と共に次の任務地である遠江国に下向し、質侶牧を経営していた頃、新たな相模国司として、相模国の政治的実権を握っ…

相模国庁所在地の空白(1)

2012.4.20 【相模国庁所在地の空白】 最近の考古学的成果から、相模国庁は8世紀中葉には平塚市四之宮の地に成立し、(8世紀後葉~)9世紀初頭に終焉を迎えたとされる。そして文献学上の相模国府は、10世紀前半は大住郡に所在し、12世紀半ばには余綾郡に遷っ…

真福寺・紀伊神社へ(2012.4.18)

【早川へ】 伊豆山に続いて、早川の地を訪ねた。 大江公資の早川牧、後の早川庄へと繋がる地域・・・机上では、現在の早川駅周辺も早川牧に含まれる地域と想定していた。しかし、駅周辺の地形は、海岸からほどなく山が迫り立っている。伊豆山の景観にも似て…

覚書:歌人相模の道(3) 【11世紀の木造男神立像】

2012.4.15 古代の歌や古代の道を探索することは楽しい。楽しいだけに不安にもなる。『相模集』走湯百首歌群の世界をさまよい、妄想に妄想を重ねて落ち着かない気持ちだった。しかし、12日訪れた伊豆山郷土資料館では、平安時代の信仰の形を伝える貴重な仏像…

2012.4.13

いのちは 時のいれもの そして 時の形がいのちだ なぜ 生きるのか と もはや問うこともない いのちは時を宿し 時そのものと一つなのだ いのちのなかで 時は流れ とどまらない 時を形にして生きる 流れてゆく時の 今の形を生きるのだ

伊豆山神社へ(2012.4.12)

【熱海へ】 歌人相模の道を辿るために、まず伊豆山神社を訪ねてみた。2012年4月の伊豆山神社は春爛漫の山、空、海に囲まれていた。遠く一千年前、万寿元年頃の冬正月の走湯権現・・・その姿を偲ぶ由もない。ただ、この境内の凍てつく土の下に、歌人相模が百…

覚書:歌人相模の道(2)

③2012.4.8 【万寿元年、そして国司館火災へ】 早川牧や早川荘については、早川流域から箱根山麓にかけてあったと想定されているが、現在の早川の地に真福寺があり、万寿元年(1024)創建と伝えられ、後の12世紀頃の作とされる聖観世音菩薩立像が残る。また、…

2012.4.6

2012.4.6 2011年・2012年のダイヤモンド富士(平塚海岸) 2011年4月6日 足元に寄せる波は荒く、海は他者としてのよそよそしさがあった。 2012年4月6日 春の嵐で波打ち際のひとところに貝が打ち寄せられていた。光がまぶしい。

覚書:歌人相模の道(1)

①2012.4.6 【日向薬師、そして走湯権現へ】 昨年2011年2月、相模国府比定地の平塚から、同じ古代大住郡内の伊勢原にある日向薬師まで、二日かけて歩いてみた。相模国司大江公資の妻、歌人相模の参詣路を推定し、その推定ルートに近い現代の道を実際に歩くこ…