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私の第三十四夜をつづります。

相模国府と「八幡宮」

2012.4.24 【11世紀代の八幡宮の位置を探る】
 
 歌人相模の道から外れ、脇道で迷っている。現・平塚八幡宮の旧位置について、「四之宮・東八幡・西八幡」とする説が気になりウロウロする。八幡宮の旧位置が11世紀代の相模国府の位置と係わるのではないかという思いがあるからだ。現在の疑問をまとめておこうと思う。
 
1. 長元9年(1036)~永承5年(1050)以前の間、相模国司の任にあった源頼義国府(平塚)に八幡宮を祀った可能性は残されるのか。 
*一説に、寛治元年(1087)、平塚の八幡宮から美濃国の桜ヶ岡八幡宮高山市山口町桜川に所在する「櫻ヶ岡八幡神社」)に分霊され祀られたとされている(また一説には了源〔1251年没 60歳?〕によって勧請されたという)
11世紀後半、相模国司は源義家の従兄弟である藤原棟綱(応徳3年〔1086)~寛治7年〔1089〕現任)とされるが、それ以前、康平6年(1063)以降の任官とされる国司源義家であり、時期的には、源頼義・義家が相模国司であった頃に、相模国府近辺に八幡宮が置かれた可能性を想定する余地があるように思う。
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【「櫻ヶ岡八幡神社」について】
追記1:
「平塚と高山の出会いは古く、今から900年ほど前に平塚八幡宮の御分霊が、高山市山口町の櫻ヶ岡八幡神社に祀られた頃にさかのぼります。昭和57年に平塚市で市制50周年事業として、友好都市の相手方を市民に募ったところ高山市が選ばれ、昭和57年10月22日に提携を結びました。」平塚市役所HPから抜粋・引用)
追記2:
「創祀永正十五年ならん。仁徳天皇の御創祀せしめ給ふ相州平塚八幡大神を勧請し奉りしものにして、子孫世々長く弘教と共に篤く当社に奉仕せり。其の後國司大名等の崇敬するもの多く、姉小路基綱卿、金森長近公を始め、代官郡代等の崇敬少なからず社殿の造営等も数回に及べり。従って祭礼等も古より荘重に行はれる。湯花祭、筒粥等の神事には地方中最も古き歴史を有す。例祭日四月二十九日。」岐阜県神社庁HPから抜粋・引用)
源頼信源義家源為義相模国司任官について】
追記:その後、不明な点が多いことが分かった。現段階で、彼らと平塚八幡宮との関係性を裏付けることはむずかしそうだ。
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2. (1.の可能性をふまえて)現・平塚八幡宮の旧位置は、恐らく現在の東八幡4丁目の一部(小字名:上高間 かみたかま)にあたると思われるが、その位置は果たして11世紀代まで遡ることが可能だろうか。
 *「平塚八幡宮」と「八幡」について
  (その旧位置は”上高間”であったという可能性を探しつつ…)
 「『吾妻鑑』建久3年(注:1192年)8月9日条にみえる、源頼朝が政子の安産祈願のために神馬を奉納した八幡宮は当社のことと考えられる」、
 「弘治2年(注:1556年)北条氏康武田信玄が戦ったさい戦火をうけ社殿が焼失した」、
 「当社付近は永禄4年(注:1561年)上杉謙信北条氏康を攻めたときにも上杉方の陣所となっている」、
 「天正19年(注:1591年)11月に徳川家康から八幡郷内に50石の社領が与えられ」、
 「慶長年間(注:1596年~1614年)には徳川家康が参詣し、社殿を再建したと伝える」、
 「慶長14年(注:1609年)に平塚新宿八幡社の別当職を等覚院に移した成事智院の跡地は耕地となったが、同地も洪水により川欠の地となったという」(『角川日本地名大辞典 神奈川県』1984年)とある。
 
*「上高間」について、
 「成事智院という八幡神社別当があったと言われ」、
 「成事智院は相模川の氾濫で八幡新宿(注:慶安4年〔1651〕、八幡村の一部が八幡新宿村として平塚宿の加宿となったとされる)の等覚院に移された」(平塚市地名誌事典』小川治良 2000年)とある。
 *「成事智院」について、
 「この寺 慶長14年(注:1609年)まで存せしが その年 平塚新宿 八幡別当等覺院へ引移し その跡に田園を開きしに 相模川の度々の氾濫に河中に没し 今僅かにその跡存す。」(『大野村誌「吾等の郷土」』HP:2  郷土の歴史)とある。
 
 *「成事智院」について、
 「相州七箇寺随一之成事智院 引以為斯地之寺 然者自今以後 永指此八幡別當坊 號為成事智院者也 又以其前之寺名等覚寺 而可為当院之末寺也 仍所定如件 慶長十四年 巳酉十一月吉祥日 金剛峯寺遍照光院 八幡別當成事智院」(「成事智院移転文書(高瀬慎吾氏所蔵)」『大野誌』平塚市教育委員会 1958年)とある。   
 
 *旧・八幡宮について、
 「八幡神社相模川氾濫によって流失、現在地に移された」(『平塚の地誌』井出栄ニ 1985年)とある。
 
 *東八幡3丁目に、川除(かわよけ)稲荷があり、天文19年(1550)の相模川の大洪水後に建てられたとされている(『ひらつか図鑑』第27回「八幡の地形-川除稲荷と鮫川池」平塚市博物館HP)
 
 *西八幡3丁目に、”フタツヤの古道”を示す石仏の道標があり、「右 大いそ 左 八まん ま(へ)」と彫られている。嘉永3年(1850)に建てられた道標であり、慶長14年(1609)の八幡別当坊の移転後も、江戸時代幕末まで「八まん ま(へ)」という呼び方が人々の間に残っていたことが分かる。【追記:その後、1850年時点の道標の「八まん」は現・平塚八幡宮を指し示すと理解した。】
 また、この”フタツヤの古道は”、地元では”巡礼街道、大道(おおみち)、役道(やくみち)”、大磯では”田村道、八王子道”と呼ばれた古街道とされている(『新平塚風土記稿』高瀬慎吾 1970年)。また、「本八幡村高間の成事智院(真言宗)四大堂に通じる巡礼道とも考えられる古道」(『平塚小史』1952年)とある。
 
 3. 八幡別当坊(及び旧八幡宮)が所在したと思われる「上高間」は、これまでの考古学的発掘調査成果から、9世紀代の”国司館”と想定されている高林寺遺跡第5地点、8世紀代(~9世紀前半?)の”国厨”と想定されている稲荷前A遺跡第1・2・3地点から、それぞれ南東方向に約150m、”フタツヤの古道”の道標からは北東約750m弱の至近距離に位置する。
 ただし、国府域中枢部の東端にあたるこの一画に相模川氾濫の被害が及んでいることをふまえると、移転前の八幡別当坊の位置について、11世紀代まで遡って推定することはむずかしいだろう。
      
 以上から、平塚における八幡宮は、伝承上ではあるが、
*1087年には平塚市内に存在した可能性があること、
*1156年には「旧国府別宮」と位置づけられていること、
*1192年には 「一の宮(佐河大明神) 二の宮(河匂大明神) 三の宮(冠大明神) 四の宮(前祖大明神) 」に次ぐ”五の宮”の扱いを受けていたこと、
*1556年の戦火で焼失したこと、
*その後(恐らくは、1609年の八幡別当坊の移転にともなって)、平塚新宿すなわち現在位置(浅間町)に移転・再建されたこと、
などが想定できるのではないだろうか。
そして、その旧位置は、11世紀代の国府国衙の位置とも密接なつながりがあると妄想している。
 
イメージ 1
”フタツヤの古道”の道標
この東向きの道標の位置は本来の位置、向き方ではないと思われる。
「右 大いそ 左 八まん ま(へ)」と彫られていることを考えると、もともとは、粕屋方面から粕屋道を南下してきた通行人が、大磯方面からの田村道・八王子道に突き当たる地点に、北向きに置かれていたのではないだろうか。
【追記:上記の疑問についても、その後、平塚市博物館の刊行物を読み、解決した。(つまり、「八まん」は現・平塚八幡宮を指し示すことを理解した。】