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私の第三十四夜をつづります。

追記:「實雄法印の塔」(高瀬慎吾) から

 

今回、「八幡別当 成事智院」について復習した機会に、高瀬慎吾氏(1900~1991)のコラム『広報ひらつか』№186 4月号 1967年4月15日発行も、ここに抜粋・引用しておきたい。
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新平塚風土記 132
「實雄法印の塔」 高瀬慎吾

(前略)
 偶々 八幡村に相州七箇寺随一の古刹といわれる高間山成事智院が天文19年の相模川大洪水に流出したまま未再建であるのを知って これに遷り 再建を計画中、慶長10年(1605)徳川家康の命を受けて関東の霊峰大山寺に転住した。(中略)
 慶長14年11月 實雄はかねて再建を計画した八幡村 成事智院を八幡新宿(平塚新宿)に移転させ 八幡宮別当寺として 同寺と八幡宮を再興し みづから この寺を兼務して第一世を称した。
 實雄法印は元和4年(1618)2月2日卒った。寿は75歳 法臘〔ホウロウ〕は68歳、平塚新宿の雲出氏墓地にその五輪塔がのこっている。(後略)
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このコラムには、1609年時点で實雄法印が衰退していた成事智院を上高間から移転させ、八幡新宿の地で八幡宮とともに再興した…そのような想定が書かれている。

そして、成事智院の移転の背景として、「天文19年の相模川大洪水」による流出を想定されている。
とすれば、成事智院が16世紀末に「相州七か寺」の一つとして存在感を示しているのも、大洪水で流出
以降、實雄が実際に再建に着手しはじめたからなのだろうか。
 なお、コラムには、上高間での成事智院の再建計画が、同時期・同地点での八幡宮の再建を含むようには書かれていない。
 もし、上高間に八幡宮が存在していた場合、天文19〔1550〕年の大洪水で、八幡宮は流出・破壊を免れたのだろうか?)

最後に、『大野誌』(大野誌編集委員会編 平塚市教育委員会 1958年:「うつりかわり 第一節 江戸時代までの大野 三 八幡神社の社名を取った八幡」)に記されている高瀬慎吾氏の言葉も載せておきたい。
(ちなみに、この『大野誌』は先の短いコラムより10年ほど前にまとめられたものだ。)
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(前略)八幡の地名の起りであり、八幡の氏神である八幡神社が、八幡の区域外である平塚市新宿地内にあることをふしぎとする人があるかも知れないが、それは、別当寺成事智院が八幡にあったことからして、八幡神社も当然その近くの八幡地内にあったものだとする根強い伝えの、成否は一時保留するとしても、平塚新宿の地が元来八幡村に属していて、この地は江戸時代に入ってから独立し、八幡新宿と称し、次いで平塚宿と合併して平塚新宿と称するようになったことによるからである。(後略)
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(かつて、この箇所を読んだ時、まるで私の問いかけに用意された言葉のように感じた。そして、『平塚八幡宮はその当初から現在地に在ったのだよ…移転などしていないのだよ…』と説得されているように感じたものだ。
しかし、高瀬氏の言葉通り、「成否は一時保留」されたまま、私の疑問はいまだ解決していない。
仮に、現在の平塚八幡宮の所在地(「八幡新宿・平塚新宿」)が、『吾妻鑑』に記載されている1192年当時の「五大堂 八幡 大會御堂と号す」の「八幡」の域内に含まれていたのだとしても、”旧・国府八幡宮”としての”八幡宮”が「八幡新宿・平塚新宿」に所在していたかどうかは分からないのではないか?…八幡宮が「八幡」の域内に所在していたことが、すなわち、八幡宮が「八幡新宿・平塚新宿」に所在していたこと、にはならない…と思うからだ。
そして、1192年時点で、”旧・国府八幡宮”が「八幡新宿・平塚新宿」に所在していたとすれば、むしろ、その立地理由…なぜ、そこに立地したのか、なぜ、その地が選ばれたのか…を問われることになるように思うのだ。)