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私の第三十四夜をつづります。

あらためて ”平塚八幡宮と八幡” について

25日午後、平塚市史 刊行記念 講演会(「お寺と神社からみた平塚の歴史」)に出かけ、お二人の講師(菅原昭英氏、鈴木建人氏)による講演、館長や講師陣のディスカッションを聴いた。

詳細で具体的な資料とエネルギッシュでわかりやすい語り口に思わず引き込まれ、3時間余の時間はあっという間に過ぎた。

そして、その講演のなかで、源頼朝石清水八幡宮の話題から「旧国府別宮」の言葉が出てきた時、『まさか…』と驚いた。

これまで私の妄想の中にあった相模国府と八幡宮の位置関係について、専門家の立場から、次のような言及があったのだ(なにぶん、私が理解し記憶した内容なので、正確性を欠いているかもしれない)

文献上に12世紀時点の「旧国府別宮」が確認されていることからも、平塚の八幡宮相模国府所在地近辺に所在した可能性があり、その原位置から、いずれかの時点で現位置に移った可能性があること、その移転のきっかけとしては”相模川による氾濫”が考えられる…そのような内容だったと思う。
(一連のお話のなかで、「川除(かわよけ)稲荷」にも言及された。平塚八幡宮の移転の可能性、その時期について、かなり具体的に想定されていることが推察された。)

私としては、常に素人の妄想に始まり、素人の妄想に終わっていただけに、このような専門家による想定にとても勇気づけられた(帰り道も、「旧国府別宮」や「成事智院」という言葉が頭の中でグルグル回り続けた)

一日たって、まだ興奮がさめやらぬなか、『enonaiehon』の記事を検索し、その”思考”錯誤の足跡を、あらためてまとめ直しておこうと思う。

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旧国府別宮 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

成事智院 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

上高間 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

廻国雑記 の検索結果 - enonaiehon (hatenadiary.jp)

覚書:「八幡(やわた)」をめぐって(1) - enonaiehon (hatenadiary.jp)

 

【「平塚八幡宮」と「八幡」について】
(以下、角川日本地名大辞典 神奈川県』1984年 から抜粋・引用)

〇建久3年〔1192年〕
『吾妻鑑』建久3年8月9日条にみえる、源頼朝が政子の安産祈願のために神馬を奉納した八幡宮は当社のことと考えられる」

〇弘治2年〔1556年〕
「弘治2年、北条氏康武田信玄が戦ったさい戦火をうけ社殿が焼失した」

〇永禄4年〔1561年〕:
「当社付近は永禄4年、上杉謙信北条氏康を攻めたときにも上杉方の陣所となっている」

天正19年〔1591年〕:
 「天正19年11月に徳川家康から八幡郷内に50石の社領が与えられ」
(注:16世紀末、八幡郷にあった八幡宮は50石の社領を持ち、近世期には「八幡」・「平塚新宿」・「馬入」3村の鎮守として、50石のうち26石5斗が別当寺の等覚院に充てられていたとされる。また、「平塚新宿村」に相当する地域は、幕末期に50石の鎮守八幡宮領を持っていたとされる。)

〇慶長年間〔1596年~1614年〕
 「慶長年間には徳川家康が参詣し、社殿を再建したと伝える」

〇慶長14年〔1609年〕: 
「慶長14年に平塚新宿八幡社の別当職を等覚院に移した成事智院の跡地は耕地となったが、同地も洪水により川欠(かわかけ)の地となったという」
 
【「上高間(かみたかま)」、「成事智院(じょうじちいん)」について】
〇「上高間(かみたかま) 寺院関係地名 
(前略)地名は、近くに成事智院という八幡神社別当寺があったと言われていて、それに由来した「聖なる地」の関連地名ではないかと考える。成事智院は相模川の氾濫で八幡新宿の等覚院に移されたが、その後間もなく廃寺となったと言われている。」
(『平塚市地名誌事典』小川治良 2000年)
(注:慶安4年〔1651〕、八幡村の一部が八幡新宿村として平塚宿の加宿となる)

 〇「この寺 慶長14年(注:1609年)まで存せしが その年 平塚新宿 八幡別当等覺院へ引移し その跡に田園を開きしに 相模川の度々の氾濫に河中に没し 今僅かにその跡存す。」
(『大野村誌「吾等の郷土」』HP:2  郷土の歴史)

 〇「相州七箇寺随一之成事智院 引以為斯地之寺 然者自今以後 永指此八幡別當坊 號為成事智院者也 又以其前之寺名等覚寺 而可為当院之末寺也 仍所定如件 慶長十四年 巳酉十一月吉祥日 金剛峯寺遍照光院 八幡別當成事智院」
(「成事智院移転文書(高瀬慎吾氏所蔵)」『大野誌』平塚市教育委員会 1958年)

 

相模川の氾濫について】

〇「八幡神社相模川氾濫によって流失、現在地に移された」
(『平塚の地誌』井出栄ニ 1985年)
 
【「川除(かわよけ)稲荷」について】
〇「東八幡三丁目の国道一二九号沿いに川除稲荷があります。この稲荷は天文九年(一五五〇年)の相模川の大洪水の後に建てられたと言い伝えられ、国道より数メートル高い位置にあります。この辺りは、平塚の市街地を造っている砂丘列の東端にあたり、国道を隔てた西側にその続きの高まりをみることができます。八幡から四之宮にかけては、このような砂丘の東縁に当たる場所に高さ二〜四メートル程の崖が南北に連なっています。」
(『ひらつか図鑑』第27回「八幡の地形-川除稲荷と鮫川池」平塚市博物館HP)

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果たして、”八幡宮”の移転時期はいつなのか?

*16世紀半ばの洪水で被害を受けたあと、17c初頭に移転した…そのように想定できるのだろうか?

その仮定に立てば、12世紀末に頼朝が神馬を奉納し、15世紀末に道興准后が法施を奉った「八幡」の神社の位置は、相模国府が所在した四之宮の南…「八幡の上高間」あたりと想定できるのだろうか?

おさらいしてみても、私は確実な答えにたどりつけない…。

しかし今は、”心強い専門家の出現とその研究”に期待している。

(なお、下の図も再掲しておきたい)