enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

写真メモ:20230610

 

6月10日、薄曇りの陽射しのなか、武蔵野台地の北縁部を歩いた。

尾久駅から赤羽駅まで、坂道を上り下りし、石神井川を渡り、最後は「日光御成道」のルートも歩いた。これらの高低差のある地形を地図と身体で確かめながら、さまざまな時代の痕跡をたどった。

そして私は、こんな風に再び仲間とともに歩きまわるようになったことを、”巡り合わせ”であるかのように感じていた。
(この日は、旅に出ていた6月8日夜に発症した蕁麻疹~血管浮腫で腫れあがってしまった異様な顔を、帽子と眼鏡とマスクで覆い隠して参加した。体調が万全でない場合は参加を見合わせるべきなのに。しかし、この日の貴重な機会を無駄にしたくなかった。その活動記録を写真メモとして『enonaiehon』の中に留めておきたい。)

尾久駅から中里貝塚を経て、台地上の西ヶ原貝塚、豊島郡衙推定地へ】

1:中里貝塚縄文時代中期中頃~後期初め)


2:平塚城 伝承地(現・平塚神社)         3:西ヶ原貝塚縄文時代中期後半~後期後半)


4:御殿前遺跡(現・滝野川公園)  5:七社神社前遺跡~七社神社裏貝塚(現・七社神社)

 

【北区飛鳥山博物館で】

6:関山式土器(縄文時代前期 飛鳥山遺跡) 7:中里貝塚の剥ぎ取り標本:マガキ・ハマグリの貝層


8:ムクノキの丸木舟(現存する長さ:約5.8m 
縄文時代中期初頭 中里遺跡)
五領ヶ台式土器と同じ時代に、これほどの舟を作る技術があったのだ。
縄文時代の土器づくりにも感嘆するけれど、直径80㎝ほどの大木を削ってこのような舟を作りあげ、海へと乗り出していったのかと思うと…尊敬しかない…。


9:豊島郡衙の正倉(実物大復元 奈良・平安時代
ぜひ見学したいと願っていた復元建物。
2010年に江戸東京博物館で聴いた中島広顕氏(北区飛鳥山博物館)による講座(「武蔵国郡衙遺跡 豊島郡衙を中心に」)の配布資料なども読み返してみる。
豊島郡衙正倉院域は(
配布資料の図面から計算すると東西約285m×南北約252mほどだろうか)、東側は御殿前遺跡、南東側は西ヶ原貝塚、北西側は七社神社前遺跡~七社神社裏貝塚などに囲まれている(現在の国立印刷局滝野川工場の敷地一帯が該当するようだ)。
最盛期(8c前半頃)に、この復元建物のような倉が東列・西列各10倉ずつ、南北にずらりと連立する景観…当時としてはかなりの壮観だったろうと想像する。

平塚ではこのような”正倉”と推定される建物群は今のところ出ていない。大住郡衙の場所もまだ謎のままだ。
なぜだろう? 
豊島郡衙の最盛期が奈良時代(8c前半)であり、豊島郡司「大伴直宮足」もやはり8c前半の人物として名を残すのに対し、相模国府の最盛期が平安時代(9世紀代)であり、大住郡司「壬生直広主」や高座郡司「壬生直黒成」も9世紀代の人物である、という違い(時期的な差異)に、何か示唆的なものを感じてしまう。

もしかすると、相模国府域内に、豊島郡衙のような奈良時代の立派で広大な正倉院域は無かったのかもしれない…復元建物を見ながらそんなことを妄想した(奈良時代から平安時代にかけて変遷してゆく正倉域を、”相模国府域”内に求めることはむずかしそうだ。とすれば、”相模国府域”の西、渋田川と谷川にはさまれた砂丘の下に眠っていたりするのだろうか?)


10:鳥形平瓶(平安時代初期 中里峡上遺跡) 11:飛鳥山1号墳 (古墳時代後期 円墳 直径31m) 

オシドリをかたどるという「灰釉水鳥紐蓋付平瓶(9c 猿投産 諏訪市有形文化財)」には脚が無いようだけれど、こちら10の資料にはしっかりとした脚が付く。

 

石神井川を渡り、「日光御成道」ルートを北上して赤羽駅へ】

12:石神井川から見る金剛寺(滝野川城跡) 13:「赤羽台3号古墳石室」(古墳時代後期 北区十条台)                        
                           

12の金剛寺は「源頼朝 布陣伝承地」。
13の石室は、原位置の赤羽台から、この十条台へ移築・展示されたもの。無数の小さな穿孔がある石が目を引く。        
                                                                                         

14:清水坂遺跡〔清水坂貝塚〕(現・若宮八幡神社) 15:稲付城跡(現・静勝寺)

13の若宮八幡神社は、小さな山(標高20mの等高線が南から北に 形に突き出ている)の上にあり、その立地に興味を引かれた。この清水坂遺跡〔清水坂貝塚〕からは、花積下層式土器(縄文時代前期初頭)が出ているようだ。
15の稲付城跡(現・静勝寺)への階段が、今回の最後の登りだった。
梅雨の晴れ間の東京を歩き、幸いに誰も熱中症になることなく、私も無事に帰宅することができた。やはり参加して良かったと思った。