enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

2015.6.30

2015年6月30日。 過ぎた半年のこと。これからの半年のこと。 また同じように過ごし、同じように省みるのだろう。その繰り返しだ。 「寸陰を惜しむ人なし。これよくしれるか、おろかなるか。おろかにしておこたる人のためにいはば、一銭軽しといへども、是を…

「賀陽院水閣歌合」④

「賀陽院水閣歌合」出詠の歌(『相模集』補遺歌群からの594)を、同じように五月の季節を詠んだ歌(『相模集』走湯百首一連の歌群からの242・244・341・343・445・447)と比べてみると、やはり一線を画した歌い方となっているように感じられる。それが歌人相…

猿投産緑釉陶器の生産地へ

24日、みよし市立歴史民俗資料館の企画展に出かけた。展示スペースに所狭しと展示された灰釉陶器と緑釉陶器素地。そのなかで、黒笹14号窯・90号窯の緑釉陶器素地、亀ヶ洞窯の緑釉陶器にしぼって、時間をかけて見学した。これまで見る機会がまったく無かった…

「賀陽院水閣歌合」③

~心象風景:どよめきの背景(『相模集』244と594の歌から)~ 「中夏 242 引きながら うきのあやめと 思ふかな かけたる宿の つましわかねば」に続く244の歌は、594(「賀陽院水閣歌合」出詠)と同じように、夏の“牧”の景観を詠み込んでいる。 244 まこも草…

「賀陽院水閣歌合」②

~心象風景:『相模集』242の歌から ~ 「賀陽院水閣歌合」で歌人相模は“五月雨”の歌を詠んだ。 その歌はなぜ、歌合に列席していた人々をどよめかせたのだろうか。 雨の季節、歌人相模はどのような歌の世界を作っているのか。 雨の季節を詠みこんだ相模の歌…

2015.6.21

終日青空だった。 国会議事堂の建物は淡いピンク色に輝いていた。 人間の鎖は真っ赤に燃え広がった。 赤、赤、赤。 赤、赤、赤。 赤い鎖が延々と国会議事堂を囲んだ。 赤い鎖は、巨大な国会議事堂に、青い空に、声を限りに訴えた。 集団的自衛権反対! 集団…

「賀陽院水閣歌合」①

「賀陽院水閣歌合」 八番 照射(ともし) 左勝 大江公資 15 さつきやみ あまつほしだに いでぬよは ともしのみこそ 山にみえけれ 歌人相模が出詠した「賀陽院水閣歌合」に、大江公資の歌も選ばれていることが、意外に感じられた。 この歌合を記録した漢文日…

2015.6.16

本当に久しぶりの海。 月曜の浜辺は、なぜか家族の姿が多かった。 とても幼い姉妹が、水着姿で小さな波と遊んでいた。 汗をかくほどの暑さでもない。でも冷たそうでもない6月の海。 波が腰まで寄せるたびに、小さな妹は立ちつくし、声をあげて瞳を輝かせる。…

ふたたび『賀茂保憲女集』から

2年ほど前の2013年9月、『賀茂保憲女集』という歌集があることを初めて知った。まず、作者が、歌人相模の母の従姉妹であることに興味をもった。乏しい読解力でわずかな数の歌を拾い読みした。彼女の歌集に風変わりな雰囲気、怪しい気配を感じた。その時、気…

左京(6)大江公仲邸跡

京都の旅の最後の日。京都駅に向かう途中で立ち寄るのはあと2か所になった。 二条駅南で千本通を左京域に渡り、南東方向に斜行する後院通に入ろうと思った。 しかし、ここでも、地図を見ながら斜めに入ったつもりが、気がつくと三条通を東に向かっていた。や…

右京(2)大江公仲邸跡、藤原良相邸(西三条第)跡

大江公資(?~1040)の子‣広経は、甥‣公仲を養子とした、とされている。この公仲は公資の孫にあたることになる(1094年、公仲は重罪で隠岐に流刑となり、3年後に戻されているようだ。大江公資も、歌人相模の蔵書を焼いてしまうようなところがあったという。…

2015.6.11

京都の旅を振り返っているうちに3週間。海もしばらく見ていない。それでも7日には、サークルの仲間たちと道了尊に出かけることができた。 しばらくぶりに参道沿いの逞しい杉の叢林を見上げる。再び、京都の続きの旅をしているような気持ちになった。 午後に…

左京(5)高陽院跡、冷然院跡

一条通の源頼光邸(一条戻橋)から御池通まで、堀川に沿って歩くことにした。途中にかかる小さな橋たちの名前を見る。東西に走る通りを横切りながら、碁盤目状の平安京の広さを身体で感じながら歩いた。 三日目第1のポイントは高陽院跡。説明板には「時の関…

左京(4)源頼光邸跡

いよいよ京都・三日目の朝。平塚に帰る日でもある。 念願の京都だったのだ。まだまだ未練が残る。 ただ、若い頃には、二週間の旅も当たり前だったというのに、相当身体がへたってしまった。今回はこの辺で帰るのが良いのかな、とも思う。三日目のプランを思…

左京(3)西寺跡から東寺へ

西院で淳和院跡を見学し、四条から歩いて九条の西寺跡・東寺へと向かった。 (9世紀中葉の大住郡・高座郡大領壬生直広主・黒成のこと、862年・865年に冷然院・淳和院に充てられた大住郡・愛甲郡の土地のこと、そして9世紀後半に連なる嵯峨源氏・仁明源氏の相…

右京(1)淳和院跡(高山寺・西院春日神社)

京都の旅の二日目。 前夜は本当に疲れ果てていた。 朝起きて驚いた。左手の甲が膨れてパンパンだった。指も曲げづらい。コンタクト・レンズを使った左眼の瞼も、みごとに腫れあがっている。 そういえば、夜中、手に強いかゆみを感じ、長い間、眠れなかったの…

左京(2)大江公資邸跡

左京六条三坊六町の慶滋保胤邸跡(地図が読めないうえに粗忽なために、enonaiehon:左京(1)での撮影地点を誤まっていた。その後、気がつき、訂正)から北東の大江公資邸跡まで、地図上では400mほどの近さだ。また北西向かいの200~300m先には…

左京(1)慶滋保胤邸跡

歌人相模・大江公資と交友関係があり、かつ相模国を実際に通過したと思われる能因。その歌集『能因法師集』にも、また12世紀中葉の歌論書『袋草紙』にも、大江公資邸について触れた歌や記述がある。 『能因法師集』(『新編国歌大観』)から 故公資朝臣の旧…

2015.6.3

6月になって最初の日の朝、さわやかに晴れていた。高麗山に行ってみる?と声をかけられた。 まだ、京都の旅のまとめも終わっていない。ホトトギスが啼いているかもしれない…の一言で、部屋のパソコンを閉じた。 歩きはじめれば、空は青く、木々は緑に輝いて…

鳥羽離宮跡(4)東殿から馬場殿へ

京都・鳥羽の旅を振り返り、東殿の安楽寿院と北向不動尊の写真を見ながら、つい12世紀の相模国府に寄り道をしてしまった。 不勉強のうえに記憶力が怪しくなっている私は、鳥羽離宮の景観(地形・歴史・遺跡・史跡・文化財など)についてほとんど知識の無いま…

鳥羽離宮跡(3)鳥羽の北向山不動院

相模国府について学び始めた十数年前、国府中枢域で謎めいた位置にあるように思えた二つの寺が、現在の四之宮にある高林寺と”北向観音”だった。高林寺の地点については寺院跡、あるいは国司館跡と想定する捉え方がある一方で、”北向観音”は考古学的対象とは…