enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

2015.6.30

 2015年6月30日。
 過ぎた半年のこと。これからの半年のこと。
 また同じように過ごし、同じように省みるのだろう。その繰り返しだ。
  
 「寸陰を惜しむ人なし。これよくしれるか、おろかなるか。おろかにしておこたる人のためにいはば、一銭軽しといへども、是をかさぬれば、まづしき人をとめる人となす。されば商人の一銭ををしむ心切なり。刹那覚えずといへども、これをはこびてやまざれば、命を終ふる期(ご)忽にいたる。
 されば道人は、とほく日月を惜しむべからず、たゞ今の一念、むなしく過ぐる事ををしむべし。もし人来りて、我が命、あすは必ず失はるべしと告げしらせたらんに、けふのくるヽあひだ、何事をかいとなまん。我等がいけるけふの日、なんぞ其の時節にことならん。一日のうちに、飲食(おんじき)、便利、睡眠、言語(ごんご)、行歩(ぎょうぶ)、やむ事をえずしておほくの時をうしなふ。其のあまりの暇幾ばくならぬうちに、無益(むやく)の事をなし、無益の事をいひ、無益の事を思惟(しゆゐ)して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて一生を送る、尤もおろかなり。……光陰何のためにかをしむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。』(『徒然草』第百八段から) 
 百八段を記した人自身は、毎日の暮らしを、具体的にどのように過ごしたのだろう。百八段のような思いを書きとめること、その時間を、無益にしておろかなりとは感じなかったのだろうか。
 「つれづれなるまヽに、日ぐらしすヾりにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」と序段を書き始めた人と、百八段を記した人とは同じ人なのだろうか。
 私は、『徒然草』が記された暇は無益ではなかったと思うのだけれど。

6月30日の漂着木
イメージ 2

波跡に映るテトラポッド
イメージ 1

咲き始めたハマヒルガオ
イメージ 3