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私の第三十四夜をつづります。

『弘徽殿女御歌合』③ 補記(赤染衛門・藤原義忠)

 
赤染衛門(?~1041以降)のこと:
「弘徽殿女御歌合」(1041年)の時点で、右作者の赤染衛門80代の高齢と推定され、同年には曾孫の大江匡房10411111)も誕生している。赤染衛門は、この最晩年の歌合以前、1035年の「賀陽院水閣歌合(関白左大臣頼通歌合)」(十番/20首)では右作者として最多の5首を出詠しながら、41引分の成績に終わっている。すでに高齢だったとはいえ、不本意な結果であったと思う。その意味では、「弘徽殿女御歌合」での211引分の成績は雪辱といえるものになったかもしれない。
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≪「賀陽院水閣歌合」で赤染衛門が出詠した5首の成績≫(『新編国歌大観』を参考)
〔撰者〕  藤原公任9661041
〔判者〕  大中臣輔親9541038
一番「月」
左勝 藤原行経(10121050
右  赤染衛門(?~1041以降)
五番「瞿麦」
    左勝 藤原公任あるいは藤原定頼9951045
       右  赤染衛門
六番「郭公」
    左勝 藤原良経10011058
    右  赤染衛門                             
七番「蛍」
    左持 藤原良経
    右  赤染衛門
八番「照射」
    左勝 大江公資(?~1040
    右  赤染衛門
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◆藤原義忠(?~1041)のこと:
 藤原義忠(のりただ)は「弘徽殿女御歌合」の判者を務めた年の10月、吉野川に落ちるという不慮の事故で亡くなっている。
私は当初、『袋草紙』下巻「一、撰者の故実」における「重服の人、歌合の作者に憚りなき事か。一条院の御時、弘徽殿女御歌合に、相模は重服の者なるにこれを読む。…」の一文を、「重服の人」は歌合の作者になることは辞退すべき、という“作者の心得”を示しているのだと理解した。
しかし、「弘徽殿女御歌合」の判者である藤原義忠が、歌合の数か月後に思いがけない死を遂げたことを知って、その一文の趣旨は、やはり「撰者の心得ておくべき先例」を挙げることにあったのかもしれない、と思うようになった。
(つまり、「重服の人」を作者に選ぶことは憚るべきという“撰者の心得”に主眼を置いた一文なのだ、と思うようになった。こうした意味では、「弘徽殿女御歌合」の左撰者・左作者である歌人相模は、二重の禁忌を犯したことになるのかもしれない。ただ『袋草紙』の作者は、「重服の者」歌人相模が歌合に参加したことで不吉な結果(藤原義忠の事故死)を招いた、とまでは考えていないかもしれない。そして、「弘徽殿女御歌合」に出詠した歌人相模が、作者であると同時に撰者でもあったことに留意していないかもしれない。)

【註:『今昔物語集』には後掲の通り、藤原義忠の事故死にかかわる説話が載るようだ。同時期の成立とされる『袋草紙』と『今昔物語集』の先後関係や、『袋草紙』作者の藤原清輔がこの説話を知っていたのかどうかは不明。】
 
なお、『袋草紙』には「弘徽殿女御歌合」における義忠の判について、次のような興味深い記述もある。
 
「…義忠の判は由緒有りて右を多く勝たしむるの由、かの時の人申すと云々。もしくは件の故に法を忌み、猥(みだ)りに偏頗(へんぱ)を至したるか。…」
 
 やはり当時から、義忠の判がさまざまな憶測を呼んだことがうかがわれる。はたして、義忠が下した勝劣の評価に、実際に何かしらの“由緒”(理由)や“偏頗”(不公平)があったのだろうか。『袋草紙』の作者が憶測するような不公平があったかどうかは分からないとしても、義忠の判の結果には「右を多く勝たしむる」の印象が残るように思う。そして、何かしらの“由緒”があったとすれば、それは右作者の侍従乳母の周辺にひそんでいるのでは、と私の妄想も広がってゆく。

 
以下の通り、『袋草紙』と同時期(平安時代末期)に成立したとされる『今昔物語集』に、藤原義忠にかかわる説話(「薬師寺食堂焼不焼金堂語」)が集録されていた。
大和国司藤原義忠が薬師寺南大門の修理用の材木を強引に造内裏料にしようとした…というエピソードが事実であれば、そこにはやはり、歌合の判のなかに自身の歌論・思いを披歴した義忠とは別の、受領国司としての一面がうかがわれるように思えた。
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「…亦、南大門の天井の編入(くみいり)の料の材木を、吉野の杣に三百余物造らしめて、上げしむと為る間に、国の司藤原の義忠の朝臣と云ふ人有て、内裏を造らるる料に、皆点()しつ。「此れは薬師寺の杣に、寺の修理の料に取れる所の木也」と乞ひ請くと云へども、国司、敢て耳に聞入れずして、只上げに上げむと為る時に、寺の別当観恩、故(ことさら)に国の司に会て、懇(ねんごろ)に乞ひ請くと云へども、遂に許す事無し。其の時に、寺の僧等、南大門の前の八幡の宝前にして、忽に百日の仁王講を始行て、此の事を祈請す。而るに、其の講、七八十日許行ふ間に、此の寺の東の大門の前に西の堀河流れたり、此の材木、其の河より曳上て、此の寺の東の大門の前に三百余、物流ら積て置けり。其れより泉河の津に運て、河より京に上るべき故也。而る間、国の司、金峰山に詣て返る間に、吉野河に落入て死ぬ。寺の僧等、此れを聞て喜ぶ事限無し。事しも、寺より運ばむ様に、東の大門に積置て後、国の司死ぬれば、故に運たるが如し。喜乍ら、寺の夫を催て、寺の内に曳入れつ。此れ亦希有の事也。此の木、積置たる上に、鳩の員知らず4)来て居ける。然れば、寺の僧共、此れを見て、「此の仁王講の験、必ず有なむ」とぞ、「□□守の5)の溺死ぬるは、既に八幡の罸(つみ)し給ひつる也」とぞ、僧共云ひける。…」
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(以上、http://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku12-20「攷証今昔物語集(本文)巻1220話 薬師寺食堂焼不焼金堂語 第二十 」より抜粋・転載させていただいた。)