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私の第三十四夜をつづります。

寄り道の覚書:『多武峰往生院千世君歌合』の静範①

  『後拾遺和歌集』の藤原兼房の歌(996)と大弐三位の返歌(997)のやり取りのあとには、もう一首、“伊豆配流となった静範”に係わる歌(998)が続いている。
 この素意法師の歌(998)の存在については、今回初めて気がついた。2012年時点で、作者の素意法師の名を、『多武峰往生院千世君歌合』の判者として確認していたにもかかわらず…。
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『後拾遺和歌集』第十七 雑三(『新編国歌大観』から)

   静範法師 八幡のみやのことにかかりて
   いづのくににながされて 又のとしの五月に
   うちの大弐三位の本につかはしける            藤原兼房朝臣
996 さつきやみ ここひの もりのほととぎす ひとしれずのみ なきわたるかな

   かへし                         大弐三位
997 ほととぎす ここひのもりに なくこゑは きくよそ人の そでもぬれけり

   これをきこしめして めしかへすよし
   おほせくだされけるを ききて               素意法師
998 すべらぎも あら人神も なごむまで なきけるもりの ほととぎすかな
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 そして、当時の勇み足の想定(「歌人相模の時代から中世へ-静範と聖範」2012年10月21日)として
藤原静範は1066年に罪を赦された後、『多武峰往生院千世君歌合』(1080年前後)に出詠している。彼が伊豆にとどまっていた可能性、阿多見聖範と同一人物である可能性は低いといえるだろう。」などと書き留めたことを思い出した。
 しかし、実際のところは
「“『多武峰往生院千世君歌合』の静範”は“藤原兼房を父とする静範”である」と考える根拠を示すことはできていなかった。
 今思えば、 2012年時点で書き留めるべきだったことは、
「“伊豆配流となった静範”が“阿多見聖範”である可能性と、“伊豆配流となった静範”が“『多武峰往生院千世君歌合』の静範”である可能性とは、互いに背反する。」という見通しだけだったのだ。
 
 今回、998の歌が『多武峰往生院千世君歌合』の判者素意法師によって詠まれていることを踏まえ、改めて現時点の見通しを書き留めてみると、
「『後拾遺和歌集』996・997・998の一連の歌と、それぞれの作者のつながり方を追うことによって、“伊豆配流となった静範”が、“『多武峰往生院千世君歌合』の静範”である可能性が見えてくるのではないだろうか。」というものになる。