歌人相模の足跡を訪ねるはずの旅…そのほとんどが寄り道ばかりだ。
その道草を誘うものは、「11世紀の伊豆」や「11世紀の相模」だったりする。
歌人相模の足跡をたどる手がかりが、「11世紀の伊豆」や「11世紀の相模」のなかにあるのではないかと、つい脇道にそれる。そして妄想の迷路に入り込む。その繰り返しだ。
その妄想の迷路へと誘ったのが、”静範(伊豆国に配流されたという興福寺僧)”や”静範(『多武峰往生院千世君歌合』の歌人)”であったり、”阿多見聖範(平直方の子とされる)”や”伊豆山神社の男神立像”だったりする。
結果、これらの迷路はすべてが行き止まりとなっている(つまり、歌人相模にはたどりつかないままで終わっている)。
こうした経過に懲りずに、今もまだ、あれやこれやと手がかりを探し続けている。そして最近、遅まきながら、11世紀の多武峰の僧として”聖範”という名の僧が存在することを知った。この新たな”聖範”が、”静範(『多武峰往生院千世君歌合』の歌人)”と同一人物か、別人なのか、分からない。
今できることは、11世紀の時代のなかで重なり合う”静範”と”聖範”(”浄範”=”ジョウハン”の例は除く)について、改めて簡単にまとめ直すことだけだ。これ以上のことがいつか分かること、そして彼らのなかに、歌人相模とどこかで接点を持つ人がいることを期待しつつ。
【聖範】
【阿多見聖範】
源 頼義 (1036年 相模守)― 源 義家 (1063年以降に相模守)
|ー 女 ー 藤原棟綱 (1086年 相模守)
| ー 女
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藤原兼房 | ー 静範 (1063~66年 伊豆配流)
| ー 藤原兼仲 (1083~85年 相模守)
【静範】
『多武峰往生院千世君歌合』(1070年頃~1082年頃)に出詠。
≪参考:『多武峰往生院千世君歌合』で詠んだ歌≫
一番 涼風入簾
左 仁昭
わぎもこが あたりのこすは まかねども まどほしにふく かぜぞすずしき
右 静範
あきかぜの みすのまどほに ふきくれば てなれしあふぎ ゆくへしられず
わぎもこに あふきのかぜをくらぶれど さだかにみえず こすのまどほし
【静範】
1063年3月、成務天皇陵から宝物を盗み、10月に伊豆配流となったとされる。1066年7月、罪を赦される。
静範法師 八幡の宮のことにかヽりて、伊豆の国に流されて、
996 さつきやみ 子恋の杜の ほとゝぎす 人知れずのみ 鳴きわたるかな
かへし 大弐三位
997 ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり
997 ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり