enonaiehon

私の第三十四夜をつづります。

覚書:”静範”と”聖範”

 歌人相模の足跡を訪ねるはずの旅…そのほとんどが寄り道ばかりだ。
 その道草を誘うものは、「11世紀の伊豆」や「11世紀の相模」だったりする。
 歌人相模の足跡をたどる手がかりが、「11世紀の伊豆」や「11世紀の相模」のなかにあるのではないかと、つい脇道にそれる。そして妄想の迷路に入り込む。その繰り返しだ。
 
 その妄想の迷路へと誘ったのが、”静範伊豆国に配流されたという興福寺僧)”や”静範(『多武峰往生院千世君歌合』の歌人”であったり、”阿多見聖範平直方の子とされるや”伊豆山神社男神立像”だったりする。
 結果、これらの迷路はすべてが行き止まりとなっている(つまり、歌人相模にはたどりつかないままで終わっている)。
 
 こうした経過に懲りずに、今もまだ、あれやこれやと手がかりを探し続けている。そして最近、遅まきながら、11世紀の多武峰の僧として”聖範”という名の僧が存在することを知った。この新たな”聖範”が、”静範(『多武峰往生院千世君歌合』の歌人”と同一人物か、別人なのか、分からない。
 
 今できることは、11世紀の時代のなかで重なり合う”静範”と”聖範”(”浄範”=”ジョウハン”の例は除く)について、改めて簡単にまとめ直すことだけだ。これ以上のことがいつか分かること、そして彼らのなかに、歌人相模とどこかで接点を持つ人がいることを期待しつつ。
歌人相模とは時期的にもかなり後れる彼らから、歌人相模との接点を見つけるのはむずかしい…と分かりつつ。)
 
聖範
 1081(承暦5・永保1)年…多武峰興福寺との抗争があった年…時点で、「多武峰所司 聖範 」とされている。
 
阿多見聖範】      
 
 平 直方 |   ー ( 阿多見聖範?) ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 北条時政
                   |
   ー 女 
                          ||           
         源 頼義 (1036年 相模守)― 源 義家 (1063年以降に相模守)
       ー  女 ー  藤原棟綱 (1086年 相模守)
                      |  ー    女
                ||           
         藤原兼房   ー  静範 (1063~66年 伊豆配流)                                                       
             |  ー    藤原兼仲 (1083~85年 相模守)
 
静範
 『多武峰往生院千世君歌合』(1070年頃~1082年頃)に出詠。
 
 ≪参考:『多武峰往生院千世君歌合』で詠んだ歌≫
 一番  涼風入簾
   左        仁昭
  わぎもこが あたりのこすは まかねども まどほしにふく かぜぞすずしき
   右        静範
  あきかぜの みすのまどほに ふきくれば てなれしあふぎ ゆくへしられず
     
   わぎもこに あふきのかぜをくらぶれど さだかにみえず こすのまどほし 
 
 
静範
 藤原兼房の子。興福寺僧。
 1063年3月、成務天皇陵から宝物を盗み、10月に伊豆配流となったとされる。1066年7月、罪を赦される。
 
 ≪参考:静範の父 兼房が伊豆配流の静範を思って詠んだ歌 (『後拾遺和歌集』 第十七 雑三)≫
 
       静範法師 八幡の宮のことにかヽりて、伊豆の国に流されて、
       又のとしの五月に、内の大弐三位の本につかはしける       藤原兼房朝臣
996  さつきやみ 子恋の杜の ほとゝぎす 人知れずのみ 鳴きわたるかな
       かへし 大弐三位
997  ほとゝぎす 子恋の杜に 鳴く声は 聞く夜ぞ人の 袖もぬれけり