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私の第三十四夜をつづります。

多武峰を訪ねる②『多武峰往生院千世君歌合』の”千世君”

 およそ11世紀後半、 多武峰(現・談山神社)の往生院で、僧侶たちによって地味な歌合が催された。
 その『多武峰往生院千世君歌合』には、「三番 叢露為玉  左 千世君」として、次の歌が掲げられている。

  5  つきかげに みがけるたまと みえつるは はぎのうはばの つゆにぞありける  (『新編国歌大観』)

 もとはと言えば、この歌合の歌人のなかに、伊豆に配流されたという”静範”と同じ名があったことから、多武峰の往生院(かつてあった妙楽寺の一院とされる)で催された歌合とはどういうものなのか、その性格や背景を少し知りたいと思ったのだった。
 そのうちに、判者・素意法師と歌人・静範とを結びつけることで、『歌合の静範を、伊豆配流となった”静範”と想定しても良いのでは?』と、妄想を進めていった。
 そして、そうした妄想が許されそうなほど、この歌合についての情報は少なかった。
 しだいに、僧侶たちとともに歌を詠んだ”千世君”とはだれなのか、についても関心をもった。
 その”千世君”の歌には、『雲居寺結縁経後歌合』での「五番 露 左勝」の三宮相模君の次の歌
 
  9  ゆふされば をばなおしなみ ふくかぜに たまぬきみだる のべのしらつゆ  (『新編国歌大観』)

に感じた親しみと同じようなものを感じたからだった。二人の歌は、淡々としてさりげなかった。

  ”千世君”とは、そもそも女性なのか、男性なのか。若年なのか、老齢なのか。
 結局、三宮相模君の私のイメージと重なって、50~60代の貴族女性ではなかったか、と妄想するようになっていった。
 さらに、判者・素意法師との何らかのつながりがあるはずと仮定した。そして、素意法師と”静範”との接点を”後冷泉天皇”に求めたように、素意法師と”千世君”との接点もまた”後冷泉天皇”では?と想像した。そこから浮かびあがったのは「藤原歓子」という女性だった。 

【藤原歓子】
*生没年:1021~1102 
 (歌合が開催されたおよそ1060年代後半~1080年代前半時点の年齢は、およそ40~60代。)
*父は藤原教通(996~1075)、母は藤原公任女((1000~1024)
*同母弟に静覚(1024~1083)、異母兄(母・小式部内侍)に静円
後冷泉天皇(在位:1045~1068)の皇后
*小野皇太后
*1077年出家
 
 はたして、”千世君”と呼ばれる人が、後冷泉天皇の皇后であった藤原歓子という存在と結びついたりするものだろうか。
 当時、皇后・皇太后の位をもった人が、僧侶たちに混じって、このような歌合に臨むことがあるのだろうか。
 そうした時、”~君”などと呼ばれることがあるのだろうか。
 何よりも、すでに”千世君”についての研究はなされているのだろうか。
 素人の私は、手の届かない世界をうろうろと覗き見ては、そんな自分を少し情けなく思う。
 それでも…と思う。
 いつか、『やはり愚かな妄想に終わってしまった…』という時が来るまで、しばらくの間、藤原公任の孫娘にあたる藤原歓子を、『多武峰往生院千世君歌合』の”千世君”として思い描いて楽しもうと思う。


イメージ 1
多武峰東麓で寺川にかかる屋形橋…多武峰往生院へと、”千世君”が寺川を渡ったのもこの辺り…と想像する。

イメージ 2
東大門…歌合が催された”多武峰往生院”、素性法師が住んだという”南院”の位置は分からない。現在、東の「東大門」と西の「西門跡」をつなぐ参道の南沿いにはホテルなどが建つ。”南院”は、こうした多武峰南麓にあったのかもしれないと思う。