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私の第三十四夜をつづります。

覚え書:大江公資の”女事”

 大江公資は長元8(1035)年5月16日、”賀陽院水閣歌合”(『関白左大臣頼通歌合』)に出詠する。別れた<二番目の妻>歌人相模や知友である能因も、ともに左方の歌人として出詠した歌合だった。そして歌人相模と大江公資の歌は”勝”の判を得た。
 その華やかな歌合から2か月後、大江公資はどうも不祥事をひきおこしたらしい。
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  『新国史大年表』(国書刊行会 2007年)から:
「1035(長元8)7・18  大江公資に乱暴した前壱岐守藤原行範を左衛門府の弓場で捕える」
  『平安人名辞典』(高科書店 1993年)から:
「長元8(1035)7・18  前壱岐守藤原行範。女の事により左衛門弓場に候せしめらる」
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 ”女事”の具体的な内容は分からないながら、『相模集全釈』をもとに、40歳代以降の大江公資を中心に、”女事”に至るまでの歩みをまとめてみた。

≪40歳代以降の大江公資≫
*<二番目の妻>歌人相模と相模国に赴く。
 帰京後、歌人相模との間の溝がより深まる。
 近江国堅田の<三番目の妻>のもとに通い、”永縁母”をもうける。

*次の赴任地・遠江国に子・広経と<最初の妻(広経母)>を伴う。
相模国赴任時と異なり、<三番目の妻>”堅田の妻(め)”を伴っていない。子どもがまだ幼かったからか。ここで妄想が始まる…もし、歌人相模が赴任先の相模国で願いどおりに子を授かった場合、都に戻る際の長旅などは肉体的に難しかったことだろうと。そして下向に際し、大江公資は<二番目の妻>歌人相模に、子を生む妻としての期待はもっていなかったのではないかと。)

遠江国からの上京時、”堅田の妻(め)”のもとに向かう。
(このことは、<かつての妻>歌人相模を無視する形になって、歌人相模の心を打ちのめす。この時点の歌人相模には、なぜか、大江公資と自分との間にはまだかすかなつながりがある…という思い込みがあったようだ。しかし、上京した大江公資が一日も早く会いたかったのは、おそらく”堅田の妻(め)”のもとで育っている…と思われる…子どもたちだったのかもしれない。歌人相模の嫉妬は、”堅田の妻(め)”だけではなく、大江公資に愛される子どもたちにも向けられたのかもしれない。)

*”賀陽院水閣歌合”に”照射(ともし)”の歌を提出する。
仮に1075~1080年頃の誕生として、すでに55~60歳の年齢になっている。子・広経たちを生んだ<最初の妻>も50歳前後で、おそらく孫も生まれていたことと思う。)

*1035(長元8)年7月18日、大江公資は前壱岐守藤原行範に乱暴される。
  行範は左衛門府の弓場で”女事”の件について取り調べを受ける。
【註:
壱岐守藤原行範は藤原兼光の子。父・兼光は鎮守府将軍。兄・頼行も鎮守府将軍(1022年)。行範自身も、1019(寛仁3)年に刀伊(女真族)来襲を受けた不穏な西国の前線地域で、1024(万寿元)年、壱岐守となっている。】
(同じような時代に、受領としての経済活動や歌作りに執心する生活を送ってきた大江公資が、強面と想像される人物(藤原行範)に乱暴されたのであれば、かなりの痛手を負ったのではないだろうか。)

*その後、大江公資は”近江路”にこもり、”女事”から5年後の1040(長久元)年、没する。

【参考:『玄々集』(『新編国歌大観』)から 
      公資 一首 遠江
      ことありて、あふみぢにこもり侍りける比
119  ことしげき 世の中よりは あしひきの 山の上こそ 月はすみけれ 

以上が大江公資の”女事”についての妄想を含んだまとめとなる。歌人相模は<かつての夫>大江公資が1035年にひきおこした”女事”の顛末をどのように感じただろうか。さすがに、大江公資への残る思いもふっきれて、乾くことのなかった袖にも、ようやく風が通るようになったのではないかと想像している。