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私の第三十四夜をつづります。

寄り道の覚書:”堅田の妻”と歌人大江公資の血筋

 相模国司・大江公資の<妻>として相模国に下った歌人相模は、次のような歌を詠んでいる。
 
 『相模集全釈』(風間書房)から
 230  若草を こめてしめたる 春の野に 我よりほかの すみれ摘ますな
 
 この歌には、<妻>(歌人相模)の存在を忘れた相模国司・大江公資が、任地(春の野)で、ほかの若い女性(すみれ)を摘み歩く姿が生き生きと(?)描かれているようで興味深い。
 歌人相模の歌などから、大江公資には、やはり”女性好き”というイメージがつきまとうように思う(大江公資の晩年の”女事によって捕渡”(1035年)の内容も、やはり不名誉なものだったのかもしれない)。
 
 そうした大江公資の<妻>について、 『相模集全釈』(風間書房 1991年)には次の一文がある。
 
「…公資には広経・輔弘母を生んだ妻と、永縁母を生んだ妻と、相模の三人の妻がいたことになる。…」
 つまり、大江公資には3人の<妻>がいて、一人(系譜図)は男子(大江広経)と女子(大中臣輔弘の母)を生み、一人(系譜図 ● )は女子(権僧正 興福寺別当 永縁の母)を生み、もう一人の妻は歌人相模、ということになる。
 
 『相模集全釈』や人名辞典などをもとに、大江公資の簡略な系譜図を覚え書としてまとめてみた。 
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【大江公資の系譜図】
( || は婚姻、----- は親子、… は養子関係を示す。①・②・③・④は後掲の歌を示す)
      
        中原奉平女〔1130年、遺産をめぐり公仲養子・以実と争う〕
                               ||-----大江広経    大江公仲   -----  仲子
 儀同三司家女房          ||-----大江公資女   -----    大中臣輔弘
    ||---------大江公資(?~1040)    
弓削(大江)清言     ||----------------------------大江公資女(1026以降?~?)
                            近江国堅田の妻か〕             ||-----永縁(1048~1125)②・③ 
                                                                          ||-----斎宮内侍
                                                                                   藤原永相      
                                              
                                                                               
                       
                                    
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 『相模集全釈』では、大江公資の<妻>(永縁母を生んだ女性)に対する歌人相模の心情について、次のように推察している(『相模集全釈』(風間書房)から引用させていただく)。

 「…夜離れの夫を思う時なぜ近江のうみがおもいやられるかと言えば、そこには新しい妻が住んでいたからである。135の詞書「昔語らひし人、遠き国より上りておとづれざりしかば。妻(め)堅田にあり。」と結び付けて考えれば一層はっきりする。この妻が「永源・永縁母」を産んだ人なのであろう。相模は初めの妻に対しては嫉妬していないが、この妻に対しては非常に対抗意識をもやして、嫉妬もし嘆いてもいる。…」
〔註:”昔語らひし人”は大江公資。”遠き国”は大江公資の任地 遠江国。”おとづれざりしかば”は、大江公資が遠江国から上京しながら、歌人相模を訪れなかったことを指す。〕

 歌人相模が嫉妬したであろうと推察される”堅田の妻”については、何の手がかりも見つかっていない。ただ、”堅田の妻”が大江公資との間に娘を生んだとして、さらにその娘が、永縁母(大江公資女)と同一人物であるならば、その永縁母(大江公資女)の歌、永縁の歌などから、その血筋をさかのぼる”堅田の妻”の人柄についても、ごく淡いイメージが浮かぶように感じた。”堅田の妻”にとって娘(永縁母)・孫(永縁、前斎宮内侍)にあたると考えられる人々の歌を、次の通り、選んでみた。
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【『金葉和歌集 三奏本』(『新編国歌大観』)から引用】
 
① 永縁 母(大江公資女)の歌  
    みやづかへしける むすめのもとに 五月五日 くすだま つかはすとて よめる  権僧正永縁母
129  あやめぐさ わが身のうきに ひきかへて なべてならぬに おもひいでなん
 
② 永縁(権僧正 興福寺別当)の歌
    まかりて ひさしくなりにける母を ゆめに見て よめる  権僧正永縁
610  ゆめにのみ むかしの人を あひみれば さむるほどこそ わかれなりけれ
 
 永縁(権僧正 興福寺別当)の歌
    花見御幸をみて いもうとの ないし のもとへ つかはしける  権僧正永縁
510  ゆくすゑの ためしとけふを おもふとも いまいくとせか 人にかたらん
 
 前斎宮内侍(永縁 妹)の歌
    返し  内侍
511  いくちよも 君ぞかたらん つもりゐて おもしろかりし 花のみゆきを 
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 こうして、大江公資の”堅田の妻”の娘・孫と思われる人々が詠んだ歌を眺めてみると、いずれも家族を思う優しさが浮かび上がってくるように思う。おそらく…と、”堅田の妻”の人柄を淡く思い描く。
 その人自身の歌は残らないながら、歌を詠む大江公資の血筋を伝え得る人であったのだろうと。また、大江公資が安らぐことのできる“淡海”のような静かな人柄ではなかったかと。
 その一方で、大江公資の子を強く願いながら果たせなかった歌人相模、自分のもとから遠く去った大江公資に思いを残し続けた歌人相模、その後、歌の世界により深く没入していったであろう歌人相模の姿に、かすかな痛みのようなものを感じるのだ。