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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑩‐まとめにならないまとめ(1)

 『相模集』(『相模集全釈』:1~597)の半分は、歌人相模が1020年代、走湯参詣で詠んだとされる歌…「走湯権現奉納百首及びその贈答歌」(:222~524)…で占められている。
 約3ヶ月後、届けられた”走湯権現”からの返歌(:321~421)について、歌人相模は詞書のなかで、「かの山の僧のもとから、権現の御かへりとておこせたりしかば」と記している。
 その返歌を詠んだ”人物”については、研究者の方々の想定は異なり(私の知る限り、次のa・b・cがある)、それぞれが魅力的に感じられる。
 a‐走湯山の権現僧か
 b-歌人相模自身か
 c-大江公資か  

【a について思うこと : 『相模集』の詞書通りであれば、走湯山のなかで歌の素養を持った”権現僧”が選ばれて、相模国司の妻が奉納した百首に、3ヶ月をかけて返歌を詠んだとイメージするのが素直だと思う。
 この場合、相模国司大江公資と走湯山の間には、早川牧の経営を通じて、何らかの係わりがあったのではないだろうか、と妄想してしまうのだが。
 b について思うこと : 私の印象では、この想定がもっとも馴染めないものだった。根拠は無いけれど、”権現僧”の返歌を詠む限り、歌人相模が詠んだ歌とは思えなかったからだ。
 c について思うこと : この想定は、かなり確信を持って”違う”と感じた。帰京を控えていた相模国司としての大江公資は、妻・歌人相模の歌の相手を務めることができるような精神的余裕を持っていなかったと想像したからだ。】
 
 【そして、研究者による a・b・c 以外の可能性として、素人の私が妄想したのは次のようなものだった。
 (あまりに妄想が過ぎるかもしれない…)
 d-能因か : 歌人相模は、”走湯権現奉納百首 → 走湯権現の返歌百首 → 走湯権現への返歌百首”という設定で、三百首の歌作りを試みようとした。そして、相手役(”走湯権現”役)を能因に任せた。また、大江公資も、妻と友人によるこの歌作りの試みを黙認していた。】

 さらに、私にとってもう一つの謎は、歌人相模が歌を通して向かい合った”走湯権現”とは、
①現存する伊豆山神社の「男神立像」か?
それとも
②別の”権現像”か?
 という疑問だった。そして、相反する①と②の印象の間を揺れ動いてきた。

 【①の印象:
 現存する伊豆山神社の「男神立像」が、国司の妻の思いや祈りに対し、権現としての立場から、もっともらしくなだめたり、そつなくかわしたりする歌を返すだけの力量を持っていそうな”人物”…としても成り立っている造形である、という印象。
  ②の印象:
 ”走湯権現”への崇敬・畏怖の気持ちが強ければ、あのような歌のやり取りはできないのでは、という印象(歌人相模はやはり、現存する伊豆山神社の「男神立像」を拝していなかったのではないか?という思い)。これは、歌人相模が拝した”権現像”が現存する「男神立像」ではなく、別の”権現像”であった、と考えるより、むしろ、実際に返歌を詠んだのはaの走湯権現僧であった可能性へと導かれていくのだと思う。】

 結局、『走湯山縁起』を眺めてきた今も、歌人相模が、現存する伊豆山神社の「男神立像」を拝したのか、別の”権現像”を拝したのか、あるいは、”権現像”そのものを拝していなかったのか(そもそも歌人相模が、どのような”権現像”であれ、実際に神像を拝したのかどうかは、確かめようがないのだった)、分からないままに終わった。

 一方、こうした疑問は、現存する伊豆山神社の「男神立像」そのものの性格や、制作年代への関心へと移っていった。