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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑨

 『走湯山縁起』巻第五…按標題重複雖可疑姑存之〕 走湯山縁起第五」の部分…において、10世紀の堂社の変遷が記されている。縁起譚とは別の実録として受け止め、次のような一覧表をまとめてみた。


10世紀代の走湯山における堂社・神仏の造立~ :造立 :修造・修復・改造
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【註:表中の「延?」は「延斅」=「延学」? 奈良国立博物館の図録『伊豆山神社の歴史と美術』では「延教」とされている。

 この表を眺めて、編年的記述を実録と仮定したうえで推定できそうなことを書き留めると、次の通りとなる。

*講堂と礼堂は、904年のあとは964~965年と、約60年を経て、同時に修造・造立されていること。
→講堂・礼堂が連動して整備されているのは、双堂の建築だった可能性があるだろうか?

*講堂は904年以前から走湯山の中枢伽藍であったと推定されること。
→講堂の原型を遡ると以下の堂社となるのだろうか?
◇巻第二:”6尺2寸の権現像(「吉野光像」と呼ばれた神像)を込めた神殿”(550年
◇巻第三:”権現本迹の真影図を安置した根本堂”(819年)
       ”俗体像を奉じた宝社”・”本地像を安置した堂閣”(836年)
       ”本迹霊体像を安置した堂社”(878年)
神仏習合の過程のなかで、”権現像”はどのように位置づけられ、965年に講堂に祀られるようになったのだろうか。

*講堂には「長」が記された尊像が安置されているが、965年造立の尊像のなかに”権現像”が含まれ、「御長六尺」と記されていること。
→904年の十一面観音像(長八尺)は965年時に存在していたのだろうか?
→965年時の金色十一面観音像(長五尺)より背が高く、「御長六尺」と記される”権現像は、特別な崇敬を受けていたのだろうか? 
→”権現像”が、10世紀代において神殿に祀られずに、他の尊像とともに講堂に祀られているのは、護法神としての役割があったためなのだろうか?

*大規模な整備事業と思われる964~965年、983年において、願主のような経済的支援者が記されていないこと。
→記録されている願主名(実在するかどうかは不明)は、国司クラスの人々と思われるが、964~965年、983年の整備事業の資金源は何だろうか?
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 これまで『走湯山縁起』をたどたどしく追いかけ、ようやく以上の表にたどり着いた。つまり、分かったことはほとんど無い、という状況にたどり着いたのだ。
 しかし、そろそろ自分なりの今回の結論(妄想的な結論)をまとめてみなければ、と思う。いったい、どのような妄想になってしまうのだろうか…。