修善寺の旅の最後はみぞれ模様の寒い日となった。
おかげで修禅寺の宝物館をゆっくり見学することができた。
写真で展示されている大日如来坐像(実慶作)を見て「かんなみ仏の里美術館」の仄暗い展示室を思い出したり、北条政子の直筆とされる奥書を眺めて、光明皇后のものとされる「藤三娘」の筆使いとの違いを興味深く感じたりした。
また、加藤景廉についての解説文を読み、伊豆山神社をめぐるあれこれ…歌人相模が走湯権現と百首歌で結びついた背景に能因が関与しているのでは?という妄想…を想いおこしたりした(とはいえ、能因と伊豆との接点は何も探し出せてはいない…)。
さらに、旅から戻ったあとは、『走湯山縁起』や『閑谷集』についての妄想がわらわらと湧いて、いつものように収拾がつかなくなった。
以下に、伊豆山をめぐる”百鬼夜行の如き非学問的妄想”を、余生の密かな愉しみとしてメモしておきたい。
【『閑谷集』と12c後半の伊豆山、そして『走湯山縁起』と10cの伊豆山】
『閑谷集』の作者は、都の「おほはら」に庵を営む「法体の歌人」(『新編国歌大観』)。
源平争乱のさなか、1181年頃には加賀国・但馬国などにも暮らしつつ、平家滅亡後は、1185年8月に駿河国「おほたに」へと移り住む。
1194年11月、在京の父を看取り、また1204年10月の上京時に北条政範の病死を知って、それぞれに追悼の歌を詠んでいる。さらに1207年11月、「北条御塔供養」に際しても歌を残している。
今回初めて、この『閑谷集』の作者を「牧四郎国親の子息」と想定する考え方があることを知った。
(『閑谷集』に記された主な活動年代(1181年~1207年)から、作者を1150年前後の生まれか?と推定し、その父は1120年前後の生まれで1194年没、と推定を重ねているが、「牧四郎国親」…在京の形で駿河国「大岡牧」と係わると思われる人物?…とはどのような存在なのだろうか?)
そして、この作者や頼朝・政子・義時・牧の方、加藤景廉・覚淵などの同世代(たぶん?)の人々が活躍した12c後半という時代に、伊豆山が北条氏・牧氏と深く係わっていたことに、改めて関心を持った。
また、そうした伊豆国の実力者と伊豆山との深い係わり方はいつ頃から始まり、どのような経緯をたどったのだろう?と思いめぐらした。
(その緊密な関係が生まれたのは9cなのか10cなのか? また、相模国司大江公資が早川牧を設定した11c前葉の時代、当時の伊豆国の実力者たちは、何を生業として活動していたのだろうか? 相模国司・大江公資との接点などがあったのだろうか?
そうした10cから11cにかけての伊豆国の実力者の一族につながる存在こそ、”走湯権現の像”(「伊豆山神社の男神立像」)の造立に係ったのでは?と想像するのだけれど…。)
なお、『走湯山縁起』巻第五には、
「天禄四年北条大夫平時直為二願主一。延斅為二勧進一建‐立二宝塔一基一。安‐置二金色五仏一。四年始レ之。同五年遂レ功畢。」
とあって、「北条大夫平時直」の名が記されている。
『走湯山縁起』の成立については「鎌倉時代(988年下限)~南北朝時代(14c上限)」とする見方(『伊豆山神社の歴史と美術』2016年 奈良国立博物館)があるが、『走湯山縁起』巻第五に載る「北条大夫平時直」(973~974年の願主)については、北条時政や源頼朝の時代以降(14cまで)に作り込まれた記述とみるべきなのか、私には判断できないのが残念だ。
(仮に『走湯山縁起』の成立期が988年~北条時政登場以前と分かれば、「北条大夫時直」の名は資料として意味を持つだろうに…と思う。)
行き詰まったところで、2月4日の 「enonaiehon 」で再掲した次の表を見直し、伊豆山にとって「10c」という時代が、間断なく充実してゆく一世紀だったのだと改めて納得する。
また、そうした「10c」を経てきた走湯権現だからこそ、11世紀初頭、帰京を目前にした歌人相模は参詣を決意し、百首歌をも奉納しようと思ったのかもしれない…と考えるようになった。
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~10世紀代の走湯山における堂社・神仏の造立~
●:造立 ▲:修造・修復・改造
〔2017年1月作成〕
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同時に、奈良国立博物館の山口隆介氏が、あの長身で特異な写実的容貌の「伊豆山神社の男神立像」の制作年代を、「平安時代(10c)」と特定されたことも、以前より素直に理解できるようになった。
(山口氏は、『走湯山縁起』の「康保二年(965)」の「権現一体 御長六尺」が、あの「伊豆山神社の男神立像」に該当すると想定されている。)
⇒伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑩‐まとめにならないまとめ(2) - enonaiehon (hatenadiary.jp)
そして、「伊豆山神社の男神立像」が10cに制作されたにせよ、11c初頭に制作されたにせよ、結局、あの像は12c後半の時代も、伊豆山周辺で生き抜いていた人々を見つめていたことには違いないのだ…と思う。
『閑谷集』の作者もまた、「伊豆山にのぼりて侍りける」時、あの像を拝したのかもしれない。あるいは「鎌倉殿の十三人」たちも?
ただ、あの「伊豆山神社の男神立像」という存在は、僧侶の墨染の衣や武者の鎧兜には、かなり冷淡な視線しか送らなかったのではないか、とは思うのだけれど。