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私の第三十四夜をつづります。

立春の妄想:古今和歌集~在原業平~藤原高子~善祐~走湯山

 

立春というのに光薄い空。

この日が来ると、古今和歌集の巻頭歌を思い起こすことがある。 
今朝も、その在原元方の歌…

「年の内に 春は来にけり ひととせを 去年とや言はむ 今年とや言はむ」

…を思い出すなかで、同じ古今和歌集の藤原高子(二条后)の歌(巻第一  春歌 上 4)を眼にした。

「雪の内に 春は来にけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ」

まず、巻頭歌の作者・在原元方が業平の孫であること、そして業平から連想される高子の歌が、元方の巻頭歌に呼応するかのように、4首目として収められていること、さらに、古今和歌集の成立期には高子が没していることなどを知って、「うぐひすのこほれる涙」という風変わりな表現に、晩年の高子の思いのひとかけらが顕れ出ているように感じた(「二条后」の呼称をもとにすれば、884~896年頃に詠まれた歌、と推定してよいのだろうか?)

また、高子が東光寺の僧・善祐との関係を理由に、皇太后の位を廃されるという不自然な経緯についても、改めて思い出すこととなった。
そして、”50代半ばで密通する皇太后”という人物像と、古今和歌集の高子の歌とはやはり結びつかない…と感じた。
(そもそも、老齢ともいえる皇太后の密通というものが、平安時代には不自然なことではなかったのだろうか? また、896年の皇太后廃位時、醍醐天皇はわずか13歳、直後に左大臣となった藤原時平が基経の長男であることを考えれば、この勅勘の背後に何やら不穏なものが潜んでいるような…。)

ここから、私の連想は、高子⇒善祐⇒伊豆の熱海・走湯山へと飛躍していった。

そして、『走湯山縁起』の記述の時系列のなかで、善祐の伊豆配流(896年)は、どのように位置づけられるのだろう?と、5年前の”enonaiehon”に掲げた表を眺め直してみた。

 

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”⑨ - enonaiehon (hatenadiary.jp)

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10世紀代の走湯山における堂社・神仏の造立~ :造立 ▲:修造・修復・改造

 

この表を作成していた時点では思いもしなかったけれど、今回、「904年」という年代に、古今和歌集の成立時期が重なって見えるようになった。
また、「904年」が「896年 善祐 伊豆配流」の8年後のことであり、「910年 高子 没」の6年前にあたるということ…ここから、久しぶりに妄想の扉が開いていった。

『10世紀初め、走湯山の僧侶・金春と、伊豆に配流された善祐とは、伊豆山で出逢っていた可能性があるのでは?』

『伊豆山の”日金山 東光寺”の名前は、高子・善祐ゆかりの東光寺と係わるのだろうか?』

立春の日に、私の妄想は10世紀の伊豆山に広がってゆく。

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節分の昨日、夕方の買い物の帰り道、空を見上げると、まだ明るい綺麗な水色が広がっていた。
コロナ禍の螺旋階段を昇っているのか、下っているのか、行く先も分からない日々が延々と続く。それでも、季節ははっきりと進むべき道を見定めている。

あぁ、歌人相模の旅空をめざし、自由に羽ばたく日はいつ来るのだろう?

「節分の 夕空青し 風寒し」