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〔応神天皇2年4月〕
①「東夷相模国唐浜磯部海漕。 現二一円鏡一径三尺有余。 無レ有二表裏一。
順レ濤浮沈。 或夜放二光明一疑二日輪之出現一。
或時発二響声一誤二琴瑟之音曲一。 視レ之為二奇異之想一。
或時発二響声一誤二琴瑟之音曲一。 視レ之為二奇異之想一。
適欲レ近レ之波浪荒暴隠-没二海底一。
又或飛-登二高峰一係二松朶一。 或入二海中一照-曜二波底一。」(巻第一)
〔仁徳天皇27年8月〕
②「吾是異域神人也。 又日輪之精体也。…又以二本誓一化-出温泉一済-度二蒼生一。
因レ之呼レ吾曰二沙訶沙羅温泉之梵語歟一。」(巻第一)
【註】
:「済度蒼生」は衆生を迷いから救い出し悟らせること。
:「沙訶沙羅」は、“千手千眼観音”の梵名「沙訶沙羅布惹沙訶沙羅寧帝隷」にも関連するのだろうか? 『走湯山縁起』の推古朝・文武天皇2(698)年・承和2(835)年の事項として、円鏡や温泉に千手像が顕現し、また賢安居士の夢に本地千手千眼が顕現している。
③「于時老巫変レ形示二俗体一。其長八尺。壮齢五十有余。頭戴二居士冠子一。身着二白素衣裙一。係二健陀色袈裟一。右手持二水精念珠一。左手把二錫杖一。柔和忍辱。慈悲和雅也。」(巻第一)
【註】
:鷲塚泰光氏は論考「伊豆山神社木造男神立像考」で、この③の記述に注目され、「袈裟をかける等若干の相違はあるものの本像の相貌を彷彿とさせるものがあって看過できない。」とされている。同じく、〔欽明天皇11年(550年)〕の記述…次項の④…にも着目する鷲塚氏の指摘は、「男神立像」のあり方を示唆するものだと思う。
:「居士冠子」は現時点で不明(”幞頭”のような頭巾ではなく、小さな冠のようなものを頭に戴いていたのだろうか?)。
:「健陀色」は檜皮色。
〔欽明天皇11年(550年)〕
④「磯城島御宇十一年。天下大疫。人民死亡。又神火焼二禁囲一。
仍被レ降二綸命一。課二三箇国伊豆。駿河。武蔵。名戸土民一被レ行二臨時祭祀一。
金銅円鏡一面。径二尺。権現御体。六尺二寸。被レ込二神殿一。此像御衣木者。
和泉国茅沼海中有二音如レ雷光如レ日之物一。帝遣二勅使一令覧レ之。
長九尋楠木也。以レ之造-彫二仏神之像一。謂二吉野光像一。当山権現是也。」(巻第二)
【註】
:「禁囲」は宮中、御所。
:「御衣木」は神仏像を造る用材。
:「和泉国茅沼」は”和泉灘”。
:「長九尋」は約16m。
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鷲塚氏は③・④のような『走湯山縁起』の事項記述について、
「…本像の造立年代とははるかに隔たっており、これに当てはめることはできないが、平安時代中期の大造営事業の一貫【原文ママ】として、伊豆山権現の再興をはかった遺品と考えることもできよう。尚神像ではないが『縁起』中に記された造像の事例を見ると、延喜四年(九〇四)の十一面観音像が八尺、同じく礼堂に祀られた二体の執金剛神像が八尺、康保二年(九六五)に礼堂に安置された十一面観音像が五尺、聖観音像と権現像がいずれも六尺と像高が極めて大ぶりであることが、特筆されよう。また、本像が幞頭を戴くことや内陣厨子内とはいえ左の間に祀られていることを考慮すれば、御神体そのものとするよりは神体として顕現した円鏡に仕え祭った「松葉仙人」や「木生仙人」のような神仙に擬する可能性も無しとはしない。」と考察されている。
【註】
:「左の間」は、氏の論考の冒頭で「像は本殿奥の三間にわかれた朱塗の宮殿内東の間に安置され、几帳の奥の簡素な素木厨子内に祀られていた。」とあるので、”向かって”の場合は、右(東)の間にあたる。
(2012年7~9月開催「熱海ゆかりの名宝」展パンフレットから)