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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”①


 『走湯山縁起』(巻第一~五)のなかで”権現像”の顕現と係わる記述部分を断片的に抜粋して①~②~…と羅列し、鷲塚泰光氏の論考(「伊豆山神社木造男神立像考」)の跡を少しずつたどってみる
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応神天皇2年4月〕
 ①「東夷相模国唐浜磯部海漕。 現一円鏡径三尺有余。 無表裏
 濤浮沈。 或夜放光明日輪之出現
 或時発響声琴瑟之音曲。 視之為奇異之想
 之波浪荒暴隠-海底
 又或飛-登高峰松朶。 或入海中-波底。」(巻第一)

仁徳天皇27年8月〕
 ②「吾是異域神人也。 又日輪之精体也。…又以本誓化-出温泉済-度蒼生
   因之呼吾曰沙訶沙羅温泉之梵語。」(巻第一)
 
【註】
 :「済度蒼生」は衆生を迷いから救い出し悟らせること。 
 :「沙訶沙羅」は、“千手千眼観音”の梵名「沙訶沙羅布惹沙訶沙羅寧帝隷」にも関連するのだろうか? 『走湯山縁起』の推古朝・文武天皇2(698)年・承和2(835)年の事項として、円鏡や温泉に千手像が顕現し、また賢安居士の夢に本地千手千眼が顕現している。

 ③「于時老巫形示俗体其長八尺壮齢五十有余頭戴居士冠子身着白素衣裙。係健陀色袈裟右手持水精念珠左手把錫杖柔和忍辱慈悲和雅也。」(巻第一)

【註】
 :鷲塚泰光氏は論考「伊豆山神社木造男神立像考」で、この③の記述に注目され、「袈裟をかける等若干の相違はあるものの本像の相貌を彷彿とさせるものがあって看過できない。」とされている。同じく、〔欽明天皇11年(550年)〕の記述…次項の④…にも着目する鷲塚氏の指摘は、「男神立像」のあり方を示唆するものだと思う。
 なお、「男神立像」には持物が現存しないが、氏の論考を読む限りでは、「男神立像」の右手に水晶の数珠、左手には錫杖、といったあり方が肯定されているように感じられる。
 :「居士冠子」は現時点で不明(”幞頭”のような頭巾ではなく、小さな冠のようなものを頭に戴いていたのだろうか?)。
 :「健陀色」は檜皮色。

欽明天皇11年(550年)〕 
 ④「磯城島御宇十一年。天下大疫。人民死亡。又神火焼禁囲
 仍被綸命。課三箇国伊豆。駿河武蔵。名戸土民臨時祭祀
 金銅円鏡一面径二尺権現御体六尺二寸。被神殿。此像御衣木者。
 和泉国茅沼海中有音如雷光如日之物。帝遣勅使令覧之。
 長九尋楠木也。以之造-彫仏神之像。謂吉野光像当山権現是也。」(巻第二)

【註】
 :「禁囲」は宮中、御所。
 :「御衣木」は神仏像を造る用材。
 :「和泉国茅沼」は”和泉灘”。
 :「長九尋」は約16m。
 :「吉野光像」は『日本書紀』(巻第十九 欽明天皇紀)の”吉野寺放光樟像”。
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 鷲塚氏は③・④のような『走湯山縁起』の事項記述について、
「…本像の造立年代とははるかに隔たっており、これに当てはめることはできないが、平安時代中期の大造営事業の一貫原文ママとして、伊豆山権現の再興をはかった遺品と考えることもできよう。尚神像ではないが『縁起』中に記された造像の事例を見ると、延喜四年(九〇四)の十一面観音像が八尺、同じく礼堂に祀られた二体の執金剛神像が八尺、康保二年(九六五)に礼堂に安置された十一面観音像が五尺、聖観音像と権現像がいずれも六尺と像高が極めて大ぶりであることが、特筆されよう。また、本像が幞頭を戴くことや内陣厨子内とはいえ左の間に祀られていることを考慮すれば、御神体そのものとするよりは神体として顕現した円鏡に仕え祭った「松葉仙人」や「木生仙人」のような神仙に擬する可能性も無しとはしない。」と考察されている。

【註】
 :「左の間」は、氏の論考の冒頭で「像は本殿奥の三間にわかれた朱塗の宮殿内東の間に安置され、几帳の奥の簡素な素木厨子内に祀られていた。」とあるので、”向かって”の場合は、右(東)の間にあたる。
 :「松葉仙人」・「木生仙人」は、『走湯山縁起』において開山にまつわる神仙。日金山東光寺の後山には、「松葉仙人」・「木生仙人」・「金地仙人」の碑が、「史跡 日金の伝三仙人塚」として建つ。

イメージ 1
              伊豆山神社男神立像」
              (2012年7~9月開催「熱海ゆかりの名宝」展パンフレットから)