自分で謎を作り出し、その謎について考えるなかで、喜んだり、がっかりしたり。
毎回、同じことを繰り返して飽きない。
自己完結的で、自家中毒的で…要するに暇つぶしの”癖(へき)”、”個疾”というものなのだろう。
1020年代、歌人相模は、伊豆山の桜を次のように詠んでいる(『相模集全釈』から)。
234 雲かかる 山のさくらは おしなべて おもしろくこそ なかに見えけれ 相模
332 我が山の くもゐにさける 桜花 みる人ごとに あかずとぞいふ 権現の御かへり
436 いろふかく 心にしめる山桜 あかずとだれか よそにいふらむ 相模
332の”権現の返歌”において「我が山」の「桜花」が讃えられているほどに、春の伊豆山というものが、11世紀においても現在と同じように、桜の木によって美しく彩られていたことが想像される。
そして、「男神立像」の材がサクラ属であり、鷲塚氏の指摘のように、それが「由緒のある霊木・神木」を用いた”御衣木(みそぎ)”であったと想定するならば、当時の伊豆山の神域には、崇敬されていた桜の巨木があったことを想像させる。「男神立像」は、その桜の巨木をもとに造像されたのではないか、と。
このように「由緒のある霊木・神木」を用いた”御衣木”の可能性を指摘された鷲塚氏の論考は、「男神立像」の意味づけを考えるうえで、大きな手がかりになるのだと思う。
桜と熱海の海(伊豆山から。2012年4月撮影)