思えば、歌人相模は伊豆山参詣に際して、次のような思いを抱いていた。
~『相模集全釈』より~
「常よりも思ふ事あるをり、心にもあらで東路へ下りしに、かかるついでに ゆかしき所見むとて、三とせといふ年の正月、走湯に詣でて、なに事もえ申しつくすまじうおぼえしかば、みちに宿りて、雨つれづれなりしをり、心のうちに思ふことを、やがてたむけの幣を小さき さうしに作りて書きつけし。…」
この詞書によれば、1020年代の”走湯権現”とは、都の貴族女性が心惹かれ、『参詣して心の内に思うことを何もかもすべて申し尽くしたい』と思わせるような存在であったらしい。
しかも、”走湯権現”はそのような思い(奉納百首)に応えて、返歌百首を詠むような振る舞いをする存在…そのようなこともあり得ると思わせる存在…であったらしい。
しかし、その年代が10世紀代に遡るのかどうか。
それを知りたくて、怪しい読解力のもと、『走湯山縁起』の概要をたどたどしく追いかけてきた。
『走湯山縁起』から私なりに理解(誤解?)したことをまとめる前に、『走湯山縁起』の核心的な記述(伊豆山神社の「男神立像」の制作年代を10世紀代と推定する根拠の一つとされている記述)を整理しておかなければならない。
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今春の伊豆山神社参詣から3か月が過ぎた。
昨日、京都での修復を終えて熱海に里帰りした神像を、ようやく目の当たりにすることができた。美術館展示室の奥まった一部屋に、この一体だけが展示されている。神像の重量感、生々しい存在感に見合う空間だ。
初めて対面して真っ先に感じたのは、時代を越えた強い個性と存在感だ。造形としては11世紀当時に生きた人間そのものを写したかのように見える。異質な他者として自己完結しているようで、とりつくしまがない。それでいて、薄く閉じられた眼は、貴族的な超越感とともに、気まぐれな興味、欲望を隠しているようにも感じられる。
また、歌人相模が走湯権現参詣を果たした時点で、このような神像は無かったはずだ・・・と感じた。なぜなら、このように圧倒的な存在感を放つ神像を拝してのち、権現僧の返歌百首に対し、歌人相模が、再び切って返すような百首を詠むとは思えないからだ。
そう感じる一方で、歌人相模の煩悩に対して、この神像が権現僧の形、人間の形を借りて百首を詠んだとしても不思議がない・・・そのような妄想もよぎる。つまり、走湯百首歌群の世界は、この写実的な神像を眼にした歌人相模が、神像を擬人化することでつくりあげた、虚構の枠組みの中での文学世界だったのではないかと。
4月から待ちに待ったこの日、神像を実際に見ることで何かが見えてくるのではないか、そんな期待があった。しかし、ただ頭の中で歌人相模の道を行きつ戻りつしただけで、”11世紀の伊豆国で、なぜこのような神像が祀られたのか”という疑問は残ったままだ。
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