*「伊豆」を「東夷之境所」と位置付ける
*走湯山のなりたち(地域の自然や信仰といった”地域のアイデンティティ”…他に適切な言葉があるのだろうけれど、思いつかない…を形成する総体)を、仏教理論(理論といって良いのかどうか、知識の無い私には分からないのだけれど、「高野大和尚」とあるので、真言密教に基づく考え方だろうか?)を用い、
「円鏡」(「神鏡」)=「法身」、
「神龍」=「権現霊体」の「俗体」、
「千手(菩薩)」=「応身」、
「龍体」=「報身」、
「俗体」(「権現霊体」の「俗体」=「神龍」)=「化身」、
といった対応関係のもとに、可視的な形を持った神仏の物語として解釈する
*走湯山を日本の聖地ネットワークのなかに組み込む
以上から、この”深秘”の巻については、仏教側に立つ”執筆者”が地域のアイデンティティを把握していること、かつ走湯山における神仏習合の道筋(?)をつけようとしていること…そのような印象を受けた。しかし、この巻がなぜ特別に”深秘”とされているのか…その意図が分からないままだ。秘匿するべき価値(?)が、知識の無い私に理解できないだけなのだろうけれど。
そして、”深秘”の巻に続く巻五の二部目の前半は、
*「根本地主」の「白道明神」・「早追権現」、
*「巫女」の「初木」と彼女が養育した「日精」・「月精」、
*「権現氏人」の系譜、
などの唐突な解説が挿入される(「初木」・「日精」・「月精」の物語は、走湯山に仏教が入り込む以前からの地元の伝承を下敷きにしているのだろうか? それとも”執筆者”によって後付けされた挿話なのだろうか?)。
さらに後半は、
*走湯山の沿革(堂社・神仏の造立など)が編年形式で淡々と記録された前半部、
*「権現。或云。異国之神。或見本住之神。是神化無方也。」といった韜晦的な(?)まとめの言葉で締めくくられる最終部、
で構成されている。
ここに至って『あぁ、やっとたどり着いた…』という思いと、最終的にはぐらかされてしまったような宙ぶらりんの気持ちになった。
あとは、この巻第五の二部目の編年的な記述について、自分の備忘録とするために、まとめ直しておこうと思う。この部分こそ、「伊豆山神社の”男神立像”」の制作年代と係わる記述であるのかどうかを考えるうえで、もっとも肝腎なところなのだから。