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私の第三十四夜をつづります。

伊豆山神社の「男神立像」と『走湯山縁起』の”権現像”④

 『走湯山縁起』の巻第三では、真言宗天台宗の僧が、9世紀初頭から10世紀初頭までの間に、次のように連続して登場する。

*嵯峨朝の記事(819年):東寺大和尚(弘法大師)が登場
*仁明~文徳~清和朝の記事(835・836・855・858年):賢安(甲州八代郡の居士、姓は竹生〔竹井?〕
*仁明朝の記事(835年):金春(甲州の国吏国史?〕 麻績朝臣の子、賢安を先師とする)
*文徳朝の記事(855年):安然(相模国星谷の人)
*陽成~醍醐朝の記事(877・878・879・901年):隆保(安然和尚の門弟)

 これらの記事は、伊豆山が9世紀以降、真言宗天台宗の教えによって、大きく神仏習合が進んでいったことをイメージさせる。
 この時期には、「権現本迹之真影」の絵図が描かれ根本堂に安置されていること、また賢安居士の夢に「異人」が出現し、「我是走湯権現」・「本地千手千眼」と名乗っていること、さらに安然大和尚の霊夢に出現した優婆塞の姿などから、巻第一に出現した「異域神人」の俗体の形、巻第二の「吉野光像」としての権現像…いずれも六尺以上で背が高いイメージ…というものが、まだ保たれているようにも思える。
 「まだ」というのは、巻第三に続く巻第四、巻第五(二つの内容に分かれた形)では、縁起は一層重層的に複雑に絡み合っていくため、”権現像”のイメージ…現存する伊豆山神社の「男神立像」と同じく、背が高く、俗体であること…が霞んでしまうように思えるからだ。
 つまり、巻第四以降では、現存する伊豆山神社の「男神立像」の居場所(?)がどこにあるのかが、見えなくなるような縁起譚が展開していく(私の怪しい読解力に基づいた印象なのだけれど)。