【註:「雷電金剛王子」の降臨後、906年3月上旬、一同が上京して上奏するくだりに「昭宣公」(藤原基経)が登場する。しかし、基経の生没年(836~891)とは時代が対応していない。読解力不足の私の理解が誤っているのだろうか…?】
この「巻第四 雷電」の展開は、どこか能の舞台を観るようでもあり、伊豆山での熊野信仰のあり方を、明確なシナリオで一気に書き上げたもの、という印象を持った。
そして、巻第一~第三のように、伝承と創作がパッチワークのようにない交ぜになった記事のなかに、”権現像”の姿が随所に織り込まれた物語とは別立ての縁起譚であって、”権現像”の姿はどこにも見当たらなかった。
その「巻第四 雷電」の舞台のシテ・ワキ・ツレのような配役(?)を抜き出すと次のようになる。
【註:「東明走湯儲君」とも記されるが、その意味は不明(”走湯権現の王子”でもあるということか?)】
◇ 「漢勝」:巫覡。ちなみに「容貌美好」・「体精利敏」とある。906年2月15日、「霊神」の神勅を「龍観法師」に告げる。
◇ 「龍観法師」:天台学徒。「霊神」の容儀を見て、「本迹之真体」を拝し、「霊石」上に社壇を築き、「翠松」下に「朱殿」を構える。
◇ 「霊神」:その容儀は次のように記されている。
「三所 ~本地(伊豆山神社)~
西御前(結宮) 千手観音 女体 「 法体 千手観音
五所王子 下宮:中堂権現 薬師如来
若宮 十一面観音 女体 :講堂権現 千手菩薩
聖宮 龍樹 法体 早追権現 大威徳明王
児宮 如意輪観音 女体
子守宮 聖観音 女体 その他の主なもの
勧請十五所宮 釈迦如来
飛行宮(飛行夜叉)不動明王
また、『神像 神々の心と形』では、熊野三山の「宮廷関係の社参」は、「宇多院」の「延喜七年(九〇八)」から始まり、12世紀前葉には熊野十二所権現の本地仏が定まっていた(熊野諸神の垂迹説が平安時代後期にほぼ完成していた)とされている。
『走湯山縁起』巻第四については、10世紀前葉の段階で、すでに本地などが定まっていたのだろうか。そして、熊野本宮大社の礼殿執金剛(雷電金剛童子)の本地が弥勒菩薩、伊豆山神社の雷電金剛童子は如意輪観音であるなど、微妙に異なるのはなぜだろうか。こうした差異は普通にあることなのかもしれないのだけれど…。とにかく、『縁起』も「本地垂迹」も、私には混沌とした迷路のような世界だ。やれやれ。