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私の第三十四夜をつづります。

起雲閣で”富士山~箱根山~日金山・伊豆山”を眺め直す

 

24日、久しぶりに熱海に出かけた。
(4年前に初島を訪ねて以来の熱海駅は、驚くほどの人出だった。坂道を歩く人々の波にも、コロナ禍の長い鬱屈をはらいのけるような明るさがあった。)

人々の賑やかな流れの中を縫って「起雲閣」をめざす。
その日の起雲閣では、田島整先生上原仏教美術館学芸員による貴重な講演…『伊豆山と日金山の仏像 ~末代上人を中心に~』(主催:富士山と末代上人 熱海の会)が行われるのだった。

これを聞かないで何としよう…という思いで起雲閣の受付にたどり着く。
(熱海の町はそれほどに高い気温のようには感じなかったけれど、それでも、私の体表面温度は39度近くに達し、受付の方に驚かれてしまった…。)

田島先生の講演は、やはり4年前、上原仏教美術館特別展「伊豆の平安仏-半島に花開いた仏教文化」でも、その熱量の大きさに驚いたのだったけれど、今回も、冬眠していた「伊豆山男神立像」についての私の妄想の芽は、強く刺激されることとなった。

また、日金山を歩きたい…熱海も京都も奈良も、歩きたいところばかりだ。
歌人相模も「伊豆山男神立像」も、ずっと変わらずに、在るべきところに在るのだ。
その姿をもっと良く見たい、知りたい。
そんな気持ちをかきたてられた一日だった。

 

水平線とフェンスの重なり(根府川駅で)

 

「善祐」の墓と伝えられる石廟(古屋旅館):
この石廟の伝承については確かめようがないが、『豆州志稿』(巻11・巻13)には、「善祐」について、次のような記述がある。

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『豆州志稿』巻11から(要約):
東光寺 同村日金山 今日地蔵堂と称す。… 粟田口東光寺の善祐僧正此辺にさまよい歩きて住なれし旧院のゆかしさに仮初の庵を繕い…東光寺の寺名と同く寺を建し事至て古しと云伝うれば此説是とすべし。…

『豆州志稿』巻13から(要約):
善祐 帝王編年紀曰 寛平八年(896年)9月 陽成天皇の母儀皇太后高子東光寺の善祐法師とひそかに交通す。すなわち后位を廃す。善祐伊豆に配流すと。  
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今回、起雲閣に向かう途中、古屋旅館の前でこの石廟のことを思い出し、立ち寄ってみた。この特異な形の石廟については数年前に訪ねて以降、その年代観も含め、何も新しい情報を得ていない。扉の閂の表現など、デザインが優雅で趣深い。

 

窓がつくる光と影(起雲閣 ”ローマ風浴室”)

 

古い硝子に映り込む景色(起雲閣 ”麒麟”)

 

緑釉陶器の色合いの陶瓦(起雲閣)

 


細い畳廊下(起雲閣 ”大鳳”):
麒麟”の間を見学して二階に上がる。
その狭い踊り場で、突然、湯河原の祖父の家を思い出した。小さい頃に母と訪れた祖父の家の匂いとまったく同じ匂いがしたのだ。しかも、二階の“大鳳”の畳廊下の雰囲気も、祖父の家の二階の映像と重なった。
(祖父の家の廊下は木の廊下で、窓の下に、さらに細長い掃き出し窓があったところが異なるのだけれど。)
いったい、はるか昔の嗅覚の記憶の生々しさ、鮮やかさは、私の古ぼけた頭のどこに隠されているのだろう…。