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私の第三十四夜をつづります。

「弘徽殿女御歌合」② 「重服の者」歌人相模

 『袋草紙』下巻の「一、撰者の故実」(撰者の心得ておくべき先例)のなかに、「弘徽殿女御歌合」の左撰者で左作者でもある歌人相模について、次のような言及がある。
 
「重服(ぢゅうぶく)の人、歌合の作者に憚りなき事か。一条院の御時、弘徽殿女御歌合に、相模は重服の者なるに これを読む。…」(岩波書店『袋草紙』より)     
【註:「弘徽殿女御歌合」(長久2年)は後朱雀天皇の時代】
 
この『袋草紙』の記述は、「重服の人」(重い喪に服す人)は歌合の作者になることは憚るべきではないか、との考えを示しているようだ。
【註:「弘徽殿女御歌合」は、藤原生子(弘徽殿女御。母:藤原公任女、父:藤原教通)が後朱雀天皇に入内(1039年)して間もない時期。】
 
この「重服」については『袋草紙』脚注に「父母の喪」、「相模が当時重服かどうかは記事に見えないが、一番・五番に左方で出詠している」とある。とすれば歌人相模の「重服」とは、実父母のいずれかの喪に服したものなのだろうか。
しかし私には、歌人相模の「重服」とは、前年(1040年)の冬に亡くなった大江公資に対するものであるように思えた。
【註:歌人相模の実父は不明。母(慶滋保章女、源頼光室)の没年も不明。養父とされる源頼光1021年に没している。】
「弘徽殿女御歌合」の時点で、歌人相模が大江公資の<正妻>でもなく、すでに離別した立場にあったとしても、かつての<妻>の一人として喪に服していた…あるいは、周辺からはそうした立場にあるとみなされていたのではないかと想像するのだ。

しかし、歌人相模は「重服の者」でありながら、「弘徽殿女御歌合」の左の撰者となり、自作の歌も撰したのだ。歌人相模がこの歌合にかかわることになった経緯は分からない。ただ、憚ることなく受けて立った歌人相模の思いは理解できるように思う。歌合というものが、“歌読”にとって、それほどに抗いがたい魅力をもっていたからではないのかと。
 
「弘徽殿女御歌合」の左撰者となった歌人相模は、自作2首、良暹2首、伊勢大輔2首、源重成(兼長)2首、藤原隆資1首、永成法師1首を選んでいる(1首は作者不明)。一方、右撰者の侍従乳母(江侍従か?)は、自作5首、赤染衛門大江匡衡室、大江挙周・匡子〔江侍従〕母)4首を選んでいる(1首は作者不明)。 
こうした構成の「弘徽殿女御歌合」については、次のような特色があるように思う。
 
*左・右の撰者が女性であること
赤染衛門伊勢大輔・相模・侍従乳母など、5080歳代の女性作者が主体であること(女性作者の歌数:13、男性作者の歌数:5、不明:2
*左・右の作者数が不均衡であること(左作者数:67、右作者数:23
*右作者の赤染衛門と右撰者・作者の侍従乳母が仮に母娘であった場合(侍従乳母=江侍従)、ごく私的な内輪の態勢であること
*判者(藤原義忠)の見解が、一~十番にわたり判詞として詳細に示されていること
*一番左歌を勝とする通例の判ではなく、右歌を勝としていること
*十番「恋」右勝の判について、左方が不服として難判を加えていること
*歌合の最後に、判者(藤原義忠)自身の歌(21)が掲げられていること
21 ゆめさめん のちのよまでの おもひでに かたるばかりも わがこころかな」
 
こうした特色をもつ「弘徽殿女御歌合」で、歌人相模は右方に屈する形となったが、その後も歌合の歌人として足跡を残していくことになる。30代半ばで大江公資に去られたあと、「賀陽院水閣歌合(関白左大臣頼通歌合)」(1035年)で歌人として実績を築いた歌人相模も、1040年には大江公資が没し、1041年の「弘徽殿女御歌合」の時点では、すでに50歳前後の年齢となっていた。

「弘徽殿女御歌合」で左撰者となったこと、そして一番左歌(自作)が右の歌に負けたこと、さらには五番左歌(自作)について、判者から「いとあまり あづまぢに ふりたるやうに いひつる うとましくこそ はべれば」と指摘されたこと、総じて歌合に負けたことなどは、歌人相模にとって不本意な経験だったかもしれない。しかし、それでもなお、「重服の者」でありながらも逃してはならない貴重な「歌合」の経験だったのではないかと想像している。