「賀陽院水閣歌合」 八番 照射(ともし) 左勝 大江公資
15 さつきやみ あまつほしだに いでぬよは ともしのみこそ 山にみえけれ
歌人相模が出詠した「賀陽院水閣歌合」に、大江公資の歌も選ばれていることが、意外に感じられた。
この歌合を記録した漢文日記などを眺めてみて(読めないので…)、華やかな催しの雰囲気を少し感じ取ることができた。また、歌題が、開催された5月という季節に即したものであることも理解した(16日に設定されたのも、きっと美しい月の出を願ってのことだろうと想像した)。
しかし、歌・歌人が選び出されるまでの過程には、いったいどのような手順や道筋があるものなのだろうと思った。
円熟期の歌人相模、また彼女と係わりのある藤原定頼や能因などは、すでに歌人としての実績があったからかと思う。しかし、大江公資も、同じようにその実力が認められていたからなのだろうか。衒いのない実直な歌を詠む彼が、歌作りに熱意をもっていたことは理解できるのだけれども。
また、「五月雨」の題で詠んだ歌人相模の歌にも、つい勝手な想像が働いてしまう。その歌のどこかに、大江公資の思い出が影を落としているのではないだろうかと。
そんな素人の妄想を続ける前に、「賀陽院水閣歌合」のあらましをまとめ、覚書としておこうと思う(素人の勘違いがあるかもしれないけれど)。
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「賀陽院水閣歌合」覚書 【『新編国歌大観』を参考。*は『新国史年表』による異同。】
〔時〕 長元8(1035)年5月16日
〔所〕 藤原頼通 賀陽院邸
〔撰者〕 藤原公任
〔判者〕 大中臣輔親
〔題・歌人・判〕
一番「月」
二番「五月雨」
左勝 相模(991?~1061以降)
三番「池水」
四番「菖蒲」(あやめ)
五番「瞿麦」(なでしこ)
右 赤染衛門
六番「郭公」(ほととぎす)
右 赤染 【*右 不明】
七番「蛍」
右 赤染
八番「照射」(ともし)
左勝 大江公資(?~1040、相模の元夫)
右 赤染
九番「祝」
左 能因(988~1058?、俗名 橘永愷)
十番「恋」
左 能因
右 春宮大夫(藤原頼宗) 【*右勝】
〔歌合関係者で歌人相模の縁者〕
*雑色 源頼実(1015~1044、源頼国三男)
*小舎人 源頼綱(1025~1097、源頼国五男)
〔歌合関係者で和歌六人党に連なる人〕
*右方人:蔭孫 源頼家
:蔵人式部少丞橘義清(?~?、橘義通の子)
*雑色 源頼実