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私の第三十四夜をつづります。

「賀陽院水閣歌合」①


「賀陽院水閣歌合」 八番 照射(ともし) 左           大江公資
 
15 さつきやみ あまつほしだに いでぬよは ともしのみこそ 山にみえけれ
 
歌人相模が出詠した「賀陽院水閣歌合」に、大江公資の歌も選ばれていることが、意外に感じられた。
この歌合を記録した漢文日記などを眺めてみて(読めないので…)、華やかな催しの雰囲気を少し感じ取ることができた。また、歌題が、開催された5月という季節に即したものであることも理解した16日に設定されたのも、きっと美しい月の出を願ってのことだろうと想像した)。
しかし、歌・歌人が選び出されるまでの過程には、いったいどのような手順や道筋があるものなのだろうと思った。
円熟期の歌人相模、また彼女と係わりのある藤原定頼や能因などは、すでに歌人としての実績があったからかと思う。しかし、大江公資も、同じようにその実力が認められていたからなのだろうか。衒いのない実直な歌を詠む彼が、歌作りに熱意をもっていたことは理解できるのだけれども。
また、「五月雨」の題で詠んだ歌人相模の歌にも、つい勝手な想像が働いてしまう。その歌のどこかに、大江公資の思い出が影を落としているのではないだろうかと。
そんな素人の妄想を続ける前に、「賀陽院水閣歌合」のあらましをまとめ、覚書としておこうと思う(素人の勘違いがあるかもしれないけれど)。
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「賀陽院水閣歌合」覚書   【『新編国歌大観』を参考。*は『新国史年表』による異同。】
〔時〕   長元81035)年516
〔所〕   藤原頼通 賀陽院邸
〔撰者〕  藤原公任
〔判者〕  大中臣輔親
〔題・歌人・判〕
一番「月」
 行経10121050藤原行成三男)
右  赤染衛門956?~1041以降、大江匡衡室)
二番「五月雨」
    左 相模991?~1061以降)
    右  東宮大夫 頼宗9931065藤原道長二男)  【*右 東宮学士 茂忠朝臣
三番「池水」
     左  資業9881070藤原有国七男)       【*左 式部大輔資業朝臣
 公任卿藤原公任9661041) 或本 四条中納言
定頼9951045藤原公任長男)                    【*右 少納言経家】
四番「菖蒲」(あやめ)
    左 輔親9541038大中臣能宣長男)      【*左 不明】
    右  東宮大夫 藤原頼宗
五番「瞿麦」(なでしこ)
    左 四条大納言藤原公任 四条中納言藤原定頼云云 【*左 四条大納言定頼】
          右  赤染衛門
六番「郭公」(ほととぎす)
    左 良経10011058藤原行成四男)       【*左 赤染】
    右  赤染                              【*右 不明】
七番「蛍」
    左 良経                       【*左勝 右馬頭吉弘朝臣
    右  赤染
八番「照射」(ともし)
    左 大江公資(?~1040相模の元夫)
    右  赤染
九番「祝」
    左  能因9881058?、俗名 橘永愷)
    右 兼房10011069藤原道兼の孫)      【*右 資房の少将】 
十番「恋」  
    左  能因
    右  春宮大夫藤原頼宗)               【*右
 
〔歌合関係者で歌人相模の縁者〕
*右方人:右中弁 資通朝臣10051060源頼光女の夫、源済政の子)
:蔭孫 源頼家1007?~1072以降、源頼光二男)
*雑色 源頼実10151044、源頼国三男)
*小舎人 源頼綱10251097、源頼国五男)
〔歌合関係者で和歌六人党に連なる人〕
*右方人:蔭孫 源頼家
:蔵人式部少丞橘義清(?~?、橘義通の子)
*雑色 源頼実