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私の第三十四夜をつづります。

「弘徽殿女御歌合」① 歌人相模の歌の評価


『賀陽院水閣歌合』(10355月)で歌人相模が詠んだ“五月雨”の歌は、「殿中鼓動して郭外に及ぶ」という逸話を残した。人々の大きなどよめきが波のように広がった一瞬は、その後も語り草として伝えられていったのだろうと思う。歌人相模の歌は、当時の人々が無意識に共有していた“五月雨”の新しい心象風景を、鮮やかになめらかに掬い取ったのだと想像する。
 
しかし、その6年後の『弘徽殿女御歌合』(10412月)において、歌人相模は“霞”と“さわらび”の歌で侍従乳母(じじゅうのめのと)に完敗している。判者の藤原義忠が大江公資(?~1040)と同年配であり、源頼国(頼光の長男)・頼実(頼国の三男)とも交友関係があったとするならば、義忠の歌人相模の歌に対する判詞の手厳しさは意外なものにも思われた。
註:高重久美氏は「長元九年八月十五日夜遍照寺詩歌会-摂津源氏頼実と藤原南家実範-」の論考のなかで、義忠の生没年を(984?~1041)とされ、「義忠は頼国と親しかったと思われる」と述べられている。)

弘徽殿女御歌合 ~長久2 (1041)212日~ 【は「勝」、×は「負」、は「持」】
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1:「古今の歌合に、一番の右の勝つ例多くは見えざる者なり。ただし弘徽殿女御歌合は、義忠これを判(わ)く。(岩波書店『袋草紙』本文より)
2:「家経・相模等の難判あり。」「十番の判に対して不服であった左方は、相模に「如何に」と意見を求めている。」(岩波書店『袋草紙』傍注・脚注より)


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一番 霞    左                         さがみ
1 春のこし あしたのはらの やへがすみ 日をかさねてぞ たちまさりける
         右 かつ                   侍従のめのと
2 はるはなほ 千ぐさににほふ 花もあれど おしこめたるは かすみなりけり
 
五番 さわらび 左                         さがみ
 9 かりびとの とやまをこめて やきしより したもえいづる のべのさわらび
        右かつ                  じじゅうのめのと
10 花をだに をりてかへらん さわらびは をぎのやけのに いまぞおひいづる
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            (『新編国歌大観』「弘徽殿女御歌合 長久二年」より)
 
歌人相模が詠んだ上記の“さわらび”の歌について、判者藤原義忠は次のように評している。
 
「…かりのひとのとやまをこめてとはべるは、いとあまり あづまぢに ふりたるように いひつる うとましくこそ はべれば…」
 
古文の理解力が覚束ない私ではあるけれど、この義忠の判詞のなかに、何か毒や棘のようなものが織り込まれているように感じた。判者として歌の評価(優劣の判断)を下すこととは別に、その判詞は、歌人相模という人に何か含むところでもあったのではないかと思わせるような物言いではないかと。

はたして歌人相模の“さわらび”の歌が、侍従乳母の歌と比べ一歩及ばなかったとしても、「うとましくこそはべれば」というほどのものだったのだろうか。
判者の義忠が下した評価とは別の形で、歌人相模の歌を評価するだけの力が私にはないことがもどかしい(若い頃にもっと勉強をしていればよかった…そればかりを思う)。