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私の第三十四夜をつづります。

寄り道の覚書:『袋草紙』のなかの「三宮」と「義家」

 
図書館で『袋草紙』(岩波書店 1995)を借りてみた。歌人相模に出会わなければ手にすることもなかった書物だ。いつもの通り“つまみ読み”をする。思いがけなく、上巻【自詠の評価に執する。憲永・匡房】の逸話のなかに、“輔仁親王(三宮)”が登場し、“源義家”に言及している箇所があった。
この逸話のなかで、前半のエピソードは目にしたことがあった(藤原憲永が詠んだ“月”の歌に感嘆した藤原公任と、その公任の評価が記された歌(の紙)を“重宝”となした憲永の逸話)。しかし、後半のエピソードは初めて知る内容だった。
その後半では、源俊房が判者となった『郁芳門院前栽合(鳥羽殿前栽合)』において、大江匡房・源行宗の歌の勝劣を判じたさいのエピソードが語られたあと、「三宮」の言葉が後日談のような形で添えられている。
11世紀の歌人たちの“人となり”、歌への“執着”が生き生きと浮かびあがり、その振る舞いが映像化されるような逸話だ。そして「三宮相模君」に“執着”する私にとっては、初めて「三宮」と「義家」が具体的な形で結びついた逸話でもあった。『やはり親王であった輔仁にとっては、義家は岳父としてよりは別の存在だったのかもしれない…もちろん源行宗という存在も同じように』と、そんな感想も持った。一方で、「義家」が「三宮」の身近な存在であったことも実感した。
なお、この逸話をきっかけに、「三宮」を取り巻く人々の縁故関係を覚書として図化してみることにした。「歌人相模」も「源資通」とのつながりを通して、この「三宮」の縁故関係図に加わることになった(こうした図を作れば、人々はどこかで、どのようにも繋がってしまうのかもしれない)。
はたして「三宮相模君」は「藤原有綱女」・「源義家妻」だったのか、との推定は成り立つのだろうか…図を眺めながら自問を続けている。

「三宮」をめぐる人々 ~“妻”を中心に~
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