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私の第三十四夜をつづります。

寄り道の覚書:『多武峰往生院千世君歌合』の静範②

 “伊豆配流となった静範”に係わる歌を詠んだ、藤原兼房大弐三位・素意法師と、「多武峰往生院千世君歌合」について、これまでに理解したことをまとめてみた(参考:『新編国歌大観』・『平安時代史事典』・『新国史年表』・『平安人名辞典』など)。

藤原兼房大弐三位の係わりについて〕
藤原兼房(1001~1069)の父は兼隆(985~1053)。母は源扶義(951~998)女。
*兼房の父・兼隆の妻に大弐三位。娘が生まれている。

大弐三位(藤原賢子)について〕
大弐三位は高階成章(990~1058)と再婚。【註:子の高階為家(1038~1106)の妻に藤原義忠(?~11041)女。】
大弐三位の生年は、結婚・出産時期などから1000年前後(藤原兼房とは同年代)か。
大弐三位は、後朱雀天皇の第1皇子・親仁親王(1025~1068)、すなわち後冷泉天皇(在位:1045~1068)の乳母。
大弐三位の歌(997)の時期は、静範の伊豆配流(1063年)から罪を赦される(1066年)までの間にあたるか。
後冷泉天皇の乳母・大弐三位は、前夫・兼隆の子である兼房の嘆きを後冷泉天皇に伝え、静範の赦しを請うことが可能な立場であったか。

〔素意法師について〕
*素意法師は藤原重経(?~1094)。紀伊守。紀伊入道。
  1047年、興福寺料物奉加者。【註:前年、興福寺の諸堂が焼失。以後、興福寺は1048年再興、1049年焼失、1060年焼失、1067年・1078年再興…と焼失・再興を繰り返している。】
  1064年、紀伊国粉河寺で出家。
  1071年、粉河寺を出て、大和国多武峰妙楽寺に入る。
  1074年、遍照堂造立。
  1083年、和泉国に寂静寺造立。
*素意法師(藤原重経)の妻・一宮紀伊は祐子内親王(1038~1105)に仕える女房。
  【註:祐子内親王の父は後朱雀天皇。母は嫄子女王。親仁親王すなわち後冷泉天皇(1025~1068 在位:1045~1068 母:藤原嬉子)は祐子内親王の異母兄。】
*素意法師の歌(998)の時期は、上限が1066年(静範の罪が赦される)以降、下限は1068年(後冷泉天皇薨去)以前か。

【追記:『多武峰略記』 データベース 人名索引から引用】
    素意(十字房、?~1094)
    紀伊入道、南院
    紀伊守從五位下藤原重經
    尊卑分脈二・424(武智麿公孫): 歌人。實者重尹子。從五位上。紀伊守。母〔大中臣〕輔親女。

 
多武峰往生院千世君歌合」について〕
 以下、『新編国歌大観』の「多武峰往生院千世君歌合」解題から引用させていただく。
開催時期:
  「…判者の紀伊入道は、俗名紀伊藤原重経、出家して素意法師と称した人と思われるから、彼の出家した康平七年(1064)以後、病により下山した前年永保二年(1082)秋までの間に催されたと思われる。そして、素意法師が多武峰に在住した期間に限定することができるならば、康平七年よりはさらにくだって、延久二年(1070)以後永保二年以前の範囲になる。…」
*内容:
  「…六題六番歌人一二人の小規模歌合であるが、特色のあるのは判である。勝負付は明記されてはいないが、判詞のかわりに判者紀伊入道が判歌をもって判定している。…」
  「…歌合主催者がだれであるかも不明である。千世君という人名は、在俗者であることを思わせるが、その人の多武峰参詣を機に催されたものでもあろうか。千世君以外の参加者はすべて、判者を含め僧侶ばかりである。…」 
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『後拾遺和歌集』第十七 雑三(『新編国歌大観』から)

   静範法師 八幡のみやのことにかかりて
   いづのくににながされて 又のとしの五月に
   うちの大弐三位の本につかはしける            藤原兼房朝臣
996 さつきやみ ここひの もりのほととぎす ひとしれずのみ なきわたるかな

   かへし                         大弐三位
997 ほととぎす ここひのもりに なくこゑは きくよそ人の そでもぬれけり

   これをきこしめして めしかへすよし
   おほせくだされけるを ききて               素意法師
998 すべらぎも あら人神も なごむまで なきけるもりの ほととぎすかな
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★以上から、今回の見通しをまとめると次のようなものになる。
 *『後拾遺和歌集』の歌・詞書(996~998)から、素意法師は、歌人または受領国司として、大弐三位藤原兼房と何らかの接点を持ち、また、兼房の子・静範を知りうる立場にあったのではないか。
*『後拾遺和歌集』の素意法師の歌(998)は、兼房・大弐三位とともに、静範の罪が赦されたことを喜び、「めしかへすよし おほせくだされける」後冷泉天皇を讃えたものと思われる。
 *そうであるならば、素意法師が判者となった「多武峰往生院千世君歌合」の静範は、兼房の子・静範である可能性があるように思われる。
 【註:『後拾遺和歌集』の素意法師の歌(998)の「すべらぎ」が成務天皇を意味するのであれば、静範が盗掘した山稜が、当時は神功皇后陵と考えられていたのではないか、とする私の想定に疑問が生じることに…。あれこれとさまよったあげくに、また「八幡のみやのことにかかりて」の疑問に戻ってしまったことになる。】

★追記:2013年9月18日付の記事「相模集‐由無言8「権現の御かへり」(2)静範」を再掲
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 1024年、相模は走湯権現に参詣し、百首を奉納したとされている。そして40年後の1063年、静範という興福寺の僧が伊豆に配流となったとされている。そして、その父・兼房が流刑地で暮らす子・静範を思う歌を大弐三位に届けている。その頃、相模がもし存命であれば70代となっているかもしれない。
 このように、相模が崇敬していた走湯権現を擁する伊豆は、一方で流刑地でもあった。しかし、伊豆という地は、この時代、比較的に穏やかな追放先として位置づけられていたのではないだろうか。
 また、静範の配流先が確かに伊豆であったのなら、社会的生命を絶たれた興福寺僧の受け入れ先の一つとして、走湯権現を想定することは、あながち突飛なことでもないように思う。静範が1066年、罪を赦されたことからも、流刑先での3年間は、言わば”謹慎期間”程度のものであったのかもしれない。そして、静範はその後、都に戻ったらしい。それは、『多武峰往生院千世君歌合』という地味な雰囲気の歌合に、「静範」という名の僧が出詠しているからだ。
 自分の読解力を顧みず、その静範の歌や、紀伊入道という判者の判詞(判歌)を読んでみた。案の定、私には左右の歌のどちらが勝ちなのかも読み取れなかったのだが、その歌合と、私の心もとない理解は次のようなものだ。
 
「 一番  涼風入簾
   左        仁昭
  わぎもこが あたりのこすは まかねども まどほしにふく かぜぞすずしき
   右        静範
  あきかぜの みすのまどほに ふきくれば てなれしあふぎ ゆくへしられず
     わぎもこに あふきのかぜをくらぶれど さだかにみえず こすのまどほし 」 
 
私の理解は、
   左        仁昭
  (我妹子が あたりの小簾は 巻かねども 間遠しに吹く 風ぞ涼しき)
   右        静範
  (秋風の 御簾の間遠に 吹き来れば 手馴れし扇 行方知られず) 
      (我妹子に扇の風を比ぶれど定かに見えず小簾の間遠し) 
となる。そして、左・右の勝負については(右が勝)と判断した。
【補記:2016年時点でこの記事を読み返し、”一番左勝”という通例ではなく、”一番右勝”との理解でよいのだろうか、と感じた。藤原義忠も「東宮学士義忠歌合」において判歌で判じ、また「弘徽殿女御歌合」でも”一番右勝”と判じているので、そうした例の一つとも考えられるのだけれど。】
 
 この歌合を知って、私は静範の歌の「あきかぜの」と「てなれしあふぎ ゆくへしられず」のフレーズに興味を持った。それは『相模集』走湯権現奉納百首の「早秋 256 てもたゆく ならすあふぎのをきどころ わするばかりに あきかぜのふく」の歌を下敷きにしているように感じたからだ。 あくまでも妄想なのだが、静範はこの歌合の時期に(1070年頃から1082年頃までの間とされている)、相模集の「早秋」の歌を知っていたのかもしれない、と感じたのだ。そして、それは静範がやはり伊豆に流され、走湯権現を知っていたこととも係っているのではないか、とも感じた。すべてが仮定の上の仮定に過ぎないのだけれど。
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