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私の第三十四夜をつづります。

「賀陽院水閣歌合」⑤

「賀陽院水閣歌合」 二番 五月雨 左勝        さがみ
 3 さみだれは みづのみまきの まこもぐさ かりほすひまも あらじとぞおもふ   (『新編国歌大観』から)

       三十講の歌合せに、五月雨を
594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ思ふ   (『相模集全釈』から)
 
この「賀陽院水閣歌合」出詠の歌に、歌人相模のどのような心象風景が控えているのか。『相模集』の他の歌のなかにも、同じような風景は歌われているのだろうか。
『相模集』のなかから“中夏”の季節感を手掛かりに抜き出してみた歌を再び掲げてみる(“走湯権現”からの返歌としての341343を除く)。
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242  引きながら うきのあやめと 思ふかな かけたる宿の つましわかねば
244  まこも草 よどのわたりに かりにきて 野飼ひの駒を なつけてしかな
445  ふかからぬ 淀の水際の あやめぐさ ねたきに なにか かけてみるべき
447  野飼ひにも 放ちやせまし まこも草 手なれの駒の のどけからぬを
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 “中夏”の雨季としての季節感は、“あやめ”や“五月雨”という歌詞から醸成されている。また、そのモチーフから派生する二次的なイメージが“まこも草”であり、“よどの”、さらには“駒”や“牧”なのだと思う。
さらに『相模集』では走湯百首群のほかにも、“中夏”の雨季のモチーフをうかがわせる歌がある。 註:〔歌が詠まれた時期や相手など〕は『相模集全釈』の解釈にもとづく。
 
〔結婚前:大江公資との贈答歌〕
夕闇にと頼めたりける人にあはで、六月ついたちに おとづれたる返りごとに
48  五月雨の 闇は過ぎにき 夕月夜 ほのかに出でむ 山のはを待て
 
〔大江公資と離別した頃:一夜の相手は藤原定頼の可能性〕
わりなかりしところに、菰といふものを、あたり近うひきたりしも、忘れがたきふしにや
120  あやめにも あらぬ真菰を ひきかけし かりのよどのも 忘られぬかな        
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 これらの歌に、“中夏”の雨季という季節と分かちがたい歌人相模の心象風景が描かれているだろうか。
その季節感と心象風景との係わりについて想像できることの一つは、歌人相模にとって“中夏”の雨季としての季節感は、大江公資との馴れ初めの時期や、その後の結婚生活のなかでも続いた、晴れやかとは言いがたい心的記憶と重なりやすいものであったろうということ。
もう一つは、この季節が、歌人相模にとって忘れがたい逢瀬、その身体的記憶を呼び覚ます特別な季節だったのだろうということ。つまり、歌人相模のなかで、“中夏”の雨季としての季節感は、心と身体の深い記憶と密接に結びついていた…という想像だ。
そして、これらの“中夏”の心象風景は40代となった歌人相模のなかで、594の普遍的でシンプルな歌の世界へと止揚され、歌合に列席した人々の脳裡に鮮やかな像を結んだ…そのように解釈するにいたった。また、594の歌が引き起こした人々のどよめきとは、“五月雨の牧”という瑞々しい心象風景を共有した人々が、思わず発してしまった「おぉ…」というような感嘆のどよめきだった…そのように解釈することとした。
 
さて、そもそも「賀陽院水閣歌合」について調べ始めた時に驚いたのは、歌人相模や能因とともに、大江公資の歌が採られていたことだった。今、彼の歌を読み直して初めて気がつく。その歌のなかに「五月闇」という歌語が使われていた。
歌合の時点で、歌人相模のもとを去って久しい大江公資ではあったけれど、“中夏”の「五月闇」の季節は、彼女との逢瀬の夜を待たされ続けた、ほろ苦い思い出の季節でもあったはずだ。歌合の歌を「五月闇」の言葉から歌い始めた大江公資の心に、かつて妻であった歌人相模の姿はよぎったのだろうか。
偶然にも、五月に開かれた「賀陽院水閣歌合」の場で、それぞれの「五月雨」と「五月闇」の歌語を通して再び出逢ったかのような歌人相模と大江公資。改めて大江公資の歌を掲げ直し、「賀陽院水閣歌合」の妄想を終わりにしたい。歌人相模の歌と同じように、大江公資の歌も佳い歌と思うので。
 
「賀陽院水閣歌合」 八番 照射(ともし) 左勝           大江公資
15  さつきやみ あまつほしだに いでぬよは ともしのみこそ 山にみえけれ

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  男山から見る“淀”のあたり
  (撮影時には、男山と「美豆の御牧」との位置関係をおさえていなかった。)