「賀陽院水閣歌合」出詠の歌(『相模集』補遺歌群からの594)を、同じように五月の季節を詠んだ歌(『相模集』走湯百首一連の歌群からの242・244・341・343・445・447)と比べてみると、やはり一線を画した歌い方となっているように感じられる。それが歌人相模の歌の個性にとって良いことかどうかは分からないが、594の歌は、淡々とした視点、素直な歌い回しとなっているように思う。
1035年の歌合の時点で、すでに大江公資は去っていた。「しのびて思ひける」という秘めた恋心も実ることはなかった。30代後半から40代にかけて、歌人相模は自身の人生を振り返り、『異本相模集』を編む時間を経た。そして、女性としても歌人としても、峠から人生の阪路を見渡すような、広く安定した視座を得るに至ったのではないだろうか。
いったん、「賀陽院水閣歌合」出詠の歌(⑦)と、他の歌(①~⑥)とを整理してみる。
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『相模集全釈』(風間書房 1991)より引用
~走湯百首一連の歌群から~
中夏
①(相模から“走湯権現”へ)
242 引きながら うきのあやめと 思ふかな かけたる宿の つましわかねば
②(相模から“走湯権現”へ)
244 まこも草 よどのわたりに かりにきて 野飼ひの駒を なつけてしかな
中夏
③(“走湯権現”から①への返し)
341 志 ふかき入江の あやめ草 軒のつままで 引きかけてみよ
*「権現としては夫婦仲を修復させようとして、このように諭したのもであろう」(『相模集全釈』【参考】から)
④(“走湯権現”から②への返し)
343 まこも草 まことに人の かりつめば 野飼ひの駒も なつくとを知れ
*「誠意をもって夫に尽くせば、浮気を改めるでしょうの意」(『相模集全釈』【参考】から)
五月
⑤(相模から③への返し)
445 ふかからぬ 淀の水際の あやめぐさ ねたきに なにか かけてみるべき
*「あやめは根の長さを競うもの」(『相模集全釈』【語釈】から)
⑥(相模から④への返し)
447 野飼ひにも 放ちやせまし まこも草 手なれの駒の のどけからぬを
~補遺の歌群から~
三十講の歌合せに、五月雨を
⑦ 594 五月雨は 美豆の御牧の まこも草 かりほすひまも あらじとぞ思ふ
『相模集全釈』の年表によれば、歌人相模は治安元年(1021)秋頃に相模国へ下向、万寿2年(1025)夏頃に相模国より上京、とされているので、①~⑥の創作時期は、相模国での1021~1025年の間に収まるのだろう。
そしてほぼ10年後に詠まれたのが、「賀陽院水閣歌合」〔長元8年(1035年)5月16日開催〕出詠の⑦となる。
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五月という季節のなかで詠まれた①~⑦において、「あやめ」・「あやめ草」は歌人相模自身であったり、大江公資であったりするようだ。また、「まこも草」は「野飼ひの駒」や「牧」と一対の使われ方をしている。そして、その「駒」や「牧」は大江公資のイメージに重ねることができる。五月の歌に限らず、『相模集』の走湯百首一連の歌群は、大江公資との生活の葛藤の産物として吐き出されたものなのだと思う。
それに対し、⑦の歌は、歌人相模のなかに蓄積された個人的な記憶・エピソードを、他者と共有可能な、普遍的な記憶・エピソードへと昇華し、歌合の場にふさわしい「五月雨」の歌になっているのではないだろうか。
その一方で思う。「五月雨」とは、春雨や秋の長雨や時雨とは違って、歌人相模にとって、何か特別なものだったのではないかと。その妄想に沿って、もう少し⑦の歌の背景を考えてみたいと思う。